ユユユユユ

webエンジニアです

『アメリカ合衆国ハーラン郡』

ケンタッキー州ハーラン郡での、鉱山労働者によるストライキを記録したドキュメンタリー。

冒頭のシークエンスは、暗い鉱山のなかではたらく労働者たちを記録する。真っ黒の塵が充満する環境で肉体を酷使する労働者たち。その塵は彼らの肺をむしばんで、命を破壊することがのちに報告される。じわじわと進行する病であるが、症状が顕在化しない限り補償は受けられない。それはすなわち死の瀬戸際に立たされるまで労働し続けることを求めるもので、制度の欠陥である。

いくつもの対立軸が絡み合って複雑な状況があった。 UMW (全米鉱山労働者組合) と鉱山を運営する企業、 UMW と政府、 UMAストライキ参加者たち、ストライキ参加者たちとスト破りのごろつきたち。カメラはこのうちストライキ参加者たちに固くよりそって、彼らの言葉によって状況を記録する。要所では比喩なしに現実を批判するフォークソングが歌われて、苦境をかこつ。

カメラはそこにたたずむばかりである。映画は生のフィルムをただ編集するだけで文脈をつくりだす。その方針はドキュメンタリー映画の挑戦をものがたっているが、そうして言葉少なに披露するには、この政治状況はあまりに複雑すぎた。難解とおもわれる場面はすくなくなかった。

現実の状況を描いているにも関わらず、悪役のあまりに徹底した悪役ぶりには開いた口が塞がらない。 UMW 首班のボイルは組合長選挙の対立候補を暗殺するし、スト破りのベイジル・コリンズは銃をたずさえて暴力のオーラをむき出しにした姿が映される。それが合衆国の労働運動の現場におけるリアリティであることを厳しく主張している。これは中世にあらず、たかだか50年前の現実である。

『ゲット・アウト』

ジョーダン・ピール監督の評判高いデビュー作を観た。2017年の作品。

ホラー映画と聞くのでおそるおそる観はじめたのだけれど、あんがい恐怖とは遠い印象が続いた。しかし得体の知れない違和感、いやらしさ、居心地の悪さはたたみかけられる。

年嵩のひとびとのあいだに若者がいること。身なりのいいひとびとのあいだに元気のいい青年がいること。なにより白人たちのあいだに有色人種がたったひとりいること。ただでさえ緊張感はあるうえ、言葉尻ににじみでるわずかな狂気のかけらが、こちらの気分をじわりとなめるように刺激する。

積もり積もった不快感の正体があきらかになるとき、絶望がしたたかに与えられる。深い絶望はしかし長く持続はせずに、攻守逆転のカタルシスに転がり込む。誰が勝ち残るのか、どちらに転んでもおかしくないようにみえて、最後には愉快な決着がつく。不愉快な後味はもたずにエンドロールを迎えて、好ましい映画だとおもった。

『激突!』

スピルバーグの駆け出し時代の作品を観た。不条理と被害妄想が重なり合うさまを描いて、アメリカらしい物語であると感じた。

ほとんど全編がたったひとりのカーチェイスに費やされていて、スクリーンに二人以上の人物が映るシーンはごく少なく切り詰められている。主人公が妻に電話を掛けるシーンは、彼が家庭をもつという情報を提供する機能に徹していて、それによって立ち上がる愁いはない。爬虫類を見世物にするガスステーションは、トレーラーがそれを破壊するための小道具になっている。気落ちしながら入店したダイナーで、隠れた敵の存在に戦慄するシーンもまた、カーチェイスの合間の箸休めにすぎないようなものとして配置されている。もっとも、サンドイッチにケチャップがないと嘆く様子は、主人公の不愉快を強めるディテールとしていい効果をあげていたようにおもう。

見えざる敵に執拗な攻撃を受けることの恐怖がテーマになっている。あけすけにいえば、あおり運転の不条理をあつかっている。主人公の心理に立てば不条理であるが、感情移入を停止して眺めると、その心理そのものがパラノイアにもみえはじめる。実際、劇中で彼が第三者に被害を主張するさまは理路を欠いていて、しかもそれが妙に高圧的であるので、誰もそれに耳を貸さないのは自然である。ひらたくいうと、魅力的な人格が主役に与えられていない。

つまり狂気と狂気のぶつかりあいである。ほとんど人気のないカリフォルニアの山道で、モンスタートラックと一般乗用車がつばぜり合いをする。命からがらというぐあいにモンスターを葬ることに成功して、主人公が夕陽を背後に晴れやかな表情を浮かべるエンドロールのシークエンスはしかし、彼もまたひとりのモンスターであることを示唆しているようにみえた。

「激突」は最後の最後にいちど起こるだけであるし、「激突」よりもそのまま崖下に転落していくトラックのほうがはるかに壮観となるように演出されているから、原題の Duel はげにふさわしいタイトルとおもう。

Between the World and Me by Ta-Nehisi Coates

荻窪に住んでいたとき、ある日曜日にひさしぶりに書店にいく時間ができて、そこでみつけて買ったのだとおもう。あまり読めずに実家の書架に挿していたものを、年末年始の休暇に読んだ。

アメリカ合衆国の住人が、黒人差別を嘆いたり、そんなものは存在しないとうそぶいたり、身体と生命を破壊されることをおそれて生きたり、わたしはレイシストではないと主張したりする。奴隷貿易奴隷制度が歴史の地層に眠っているときに、いま黒い肉体をおびやかす暴力はいったいどのような集合的無意識に根ざしているのか。それを詩的に物語っている。

豊かな生活を郊外で送ること。それを「夢」という比喩で呼んで、その「夢」の代償として黒人の肉体を破壊することが、国家的歴史の要請である。そういっているのだろうと読んだ。アメリカ合衆国の「夢」は黒人の身体であがなわれる。フランス共和国の「夢」はハイチとウォロフの肉体であがなわれた。収奪して蓄積する国富。

警官が暴力を発散するとき、それはある警官に固有の狂気がそうさせるのではなく、国家の歴史に書き込まれた狂気がうごめいているのである。集団的恐怖は警官を代理人として選んで、歴史を遂行させる。殺人者を弾劾することは不可能だ。なぜならそれは多数派の意思なのであるから(民主主義!)。地震を喚問することができないのと同じように、警官も喚問することができない。自然災害をやりすごそうとつとめるようにつとめるよりない。

黒い身体を生きるということはこれらを意味するということが述べられている。あらゆるちいさな失敗は、身体を破壊する悲劇につながっている。足元をすくわれるというだけのことにあらず、すべてが破壊されて無になる。自分が無になる恐怖だけでない。若い息子がいつでも破壊されうる。その恐ろしさ。不安。その摂理を息子が知ってしまうことのやるせなさ。

固有名詞の知識におぼつかないところがあった。口語表現においてもそう。明晰に読めたという自信はないけれど、ジェイムズ・ボールドウィンの系譜を継ぐライターであるとトニ・モリスンが称賛する、ぼくたちの世代の雄弁な作家のひとまとまりの言葉に触れられたことはうれしい。またいつかなにかを読むだろうという予感がある。

https://www.penguinrandomhouse.com/books/220290/between-the-world-and-me-by-ta-nehisi-coates/

『コマンドー』

シュワルツェネッガーの『コマンドー』で、景気よく新春の映画初めをした。

素晴らしい肉体が自動ライフルの反動で揺れるのを、シュワルツェネッガー世代ドンピシャの母ともども楽しくみた。一瞬たりとも目が離せないというのを、サスペンスとは真逆の意味で用いることが必要なくらい、過剰なアクションが詰め込まれて充実した90分だった。

2023年の願望: やっぱり Starfield をやること

Starfield をプレイすることだけを去年の年初に主張していた。これは発売延期になって、未達成。で、今年も同じ願望を継続することにする。

仕事のうえでは、関数型言語を業務でつかうようにしたいというくらいのほのかな望みはあるけれど、モチベーションが低調気味であるのでのんびりやれればよい。チャンスがあったときに飛び出せればよくて、チャンスを作ることはせずともよい。

2022年はこんな映画をみた

劇場で観たものでよかったものを選び出すとこうなる。正しく順序付けようというほどに考えてはいなく、なんとなく記憶に残るものを上においておく。

観たもののほとんどは感想を書いていた。リストに並べるとこう。ゴダールが死んで『勝手にしやがれ』を観た先は、ほとんどレンタル DVD で鑑賞した。そのぶんだけ劇場を訪れる回数は減った。