ユユユユユ

webエンジニアです

『フランシス・ハ』

ノア・バームバック監督の『フランシス・ハ』を観た。

社会にうまく馴染めない、というほどに悲壮感のあるわけではないけれど、空回りをしてはどこかさみしげなフランシス、27歳を描く。

惨めたらしく過ごしても不思議でないはずの人生が、口から生まれてきたようにおしゃべり好きな性格によって明るくみえる。そうはいっても、親友との同居を解消して、パートナーには見捨てられ、目標としていた仕事には届かず、家賃をはらえるかどうかに不安げで、 ATM の手数料をみてわずかに躊躇する。その様子は、もう若さばかりではない、しかしまだなにも手に入れていないという20代の不安をよく映しだしている。

成功には遠くみえるフランシスが選ばないただひとつのことは、いじけて立ち止まることである。そのことが気に入った。彼女がそう宣言するわけではないけれど、その意志は性格に根ざしていて曲がらない。

思いつきでフランスにいったり、学生がやるようなアルバイトをして糊口をしのいだり。都市生活のもの悲しさを、どうにかポジティブな視点に変換して生を謳歌する。そういう動機がみえて、それはいまのぼくの悩みごとに深くしみいるような気がした。

昔からの親友が紹介してくれた新しい友だちが、気づけばまた昔からの友だちとなる。いちど別れてしまえばふたたび出会わないひとのおおさにおののくよりも、新しい取り組みを後押ししてくれるひとにぎりのひとたちとの親密な空気を享受すること。自分の家賃を自分で払うことのよろこび。そういう小市民的なありかたをのんびりとしたトーンで伝えて雄弁な映画であった。

『リゴレット』

新国立劇場に、『リゴレット』をみにいった。初日の公演であった。

筋書きは救いのない悲劇そのものである。

容貌が醜いからほかに仕事もなく道化師をするリゴレットは、一人娘のジルダをたいせつに愛する父の顔ももつ。彼のあるじにしてのちに敵となるマントヴァ公爵は、容貌に優れて女遊びの放蕩にふける。しかし堕落しきったというよりは君主の威厳と色男の魅力を兼ね備えた男性像である。このふたりが対照的に配されて、リゴレットは公爵への復讐をこころざしたはずが、かえってさらなる悲劇の沼に落ちていく...。

三人のメインキャストの圧巻の歌唱によって記憶に残る舞台であった。ベテランのロベルト・フロンターリがリゴレットアルメニア出身の実力派たるハスミック・トロシャンがジルダ、ペルー出身の若いイヴァン・アヨン・リヴァスがマントヴァ公爵を演じて、独唱のアリアも重唱のハーモニーも、いずれも力強いパフォーマンスだった。

第二幕のジルダのアリアが先鞭をつけた。繊細な情緒をしぼりだすようにしながら声量に妥協のない歌唱は、オペラでしか聴くことのできない人間の技工の頂上をみた。その先はほとんど一曲ごとにオベーションが起こったし、カーテンコールは祝祭的な大喝采だった。そういう晴れやかな気分に会場を導いたのはトロシャンであったとおもう。

役柄に歌手がよく合っていることもいい。リゴレットは老人で、ジルダは小柄な娘。そして公爵は若いカリスマ。歌う能力のあるひとが歌っているというのでなく、歌って演じることで『リゴレット』を作り上げられるタレントが集まっていたという気がする。

オーケストラの存在感にも目をみひらいた。指揮はマウリツィオ・ベニーニ。アリアがアカペラを迎えるたびに、彼のタクトにも思わず目が向いた。大合奏の部分でも、上体の全体をつかってオーケストラを導く彼の姿がよくみえた。座席の位置がいつもよりもすこし前方であったおかげで、そういう機微がよくみえたのかもしれない。オーケストラなしのオペラはありえないけれど、きょうほどオーケストラの存在をおおきく感じたオペラははじめてだった。

『ブルー・バイユー』

国籍システムの不備が悪意を持って運用されているという主題設定と問題提起に優れたものがある。

養子として合衆国にやってきて、そこで長く暮らしてきた人間が、手続きの不備をもって「見知らぬ母国」に送り返されるという理不尽さは現存する。人種マイノリティがその標的にされる傾向があり、軽犯罪の履歴があるといっそうその危険は深い。その社会的不正義をある虚構の家族にせまるようにして描こうとする試みがこの映画である。

それとは独立したドラマ上の問いとして、映画の目指すリアリズムはアントニオの感情をよく描けていたか。そうではないようにみえてしまった。

はじまりこそ国家的悪意に根ざしているとはいえ、状況を悪化させるいくつもの過ちをアントニオ自身もまた犯している。彼の精神的エネルギーはしばしば誤った方向に向かい、それが彼の脆さとして提示されるのだが、それは最後に解決されなかった。というより、いちどは解決されたようにみえたものが、唐突にひっくり返されて幕切れとなった。そこにおおきな混乱がある。

アントニオは、自分ひとりの力だけで苦難を克服しなければいけないと思い込んでいる。それはもとより不可能な試みであるから、かかる負荷に呼応した歪みが彼の人格の節々に発現している。

彼は嘘をつかない能力を欠いている。養母は死んだと嘘をつき、盗みはしていないと嘘をつく。これらはついた瞬間に嘘とわかる嘘と扱われている。そのうえ実母の記憶はないという嘘も数えるにあたって、虚言を癖として持つ人格が立ちあがる。これは彼を望まざる方向に導く悪癖である。

自分の求める論理をみずから補ってひとの話を聞かない独善的な態度も備えてしまっている。たとえば、本当は自身と母はともに虐待を受けていたのに、それを母は自分が殴られているのを黙ってみているだけだったという説明に彼は巧みに変換する。また養母スザンヌが判事に嘆願をしてくれるよう対面で頼み込むのだが、彼女の無言を拒絶の意思表示だと先取りしてひとりで失望する。本当は彼女はやってきてくれるのに...。

制度の不正義に、たったひとりで立ち向かう必要はない。キャシーはそれを支援するし、最後にはスザンヌも、警官のエースも支援にまわってくれる。 ICE の友人は、最後の最後までそれとなく脱出路を用意してくれさえもする。そのようにして、社会がアントニオを受け入れているということを、アントニオもまた受け入れることが待たれる。

筋書きがそう用意されているからには、より和解に満ちた結末が描かれることを期待せざるをえなかった。しかし最後の決断は、空港に救いにきた家族の意思をないがしろにする、独善的な行為にみえた。

家族がふたつにわかれるというアイデアが、パーカーの一族の過去に由来していることははっきりとしている。しかしアントニオの状況は、ベトナム戦争から逃げて舟で渡航する状況とはあまりにも離れていて、その対比は十分に機能していない。かえって、家族が一緒にいようというときに、そうするべきか否かを決めるのは家長としての男性の判断である、という誤謬が描かれていないかとおもう。

男らしくあろうとする態度がかえって男を苦難に追いこんでいること。男の想像力の孤独なまずしさ、それは最後まで変わらない...。そういうことにしてしまっていいのだろうか。そこにドラマの不備を感じて、最終ショットでカメラがばらまく悲壮な情感は覚めた目で眺めるほかなかった。みずから救いを手放して身がもだえるほど苦しむのであれば、救いを手にすることを自分に許せばよかったのではないだろうか。

ドラマから離れた部分では、社会に必要な存在であるかどうかをコミュニティが承認するという考えに、アメリカの定義する社会のありかたがのぞいているようにみえた。

アントニオにとってのただひとつの活路は、教会活動かなにかを通して彼が得たコミュニティの助けを借りることだと弁護士が語る。

教会に貢献することは、無償の営みである(そのはずだと僕はイメージする)。アントニオがタトゥーの料金を取らないことも、パーカーがそのお返しに彼をパーティーに誘うことも、また無償である。無償の奉仕を通したひととひととのつながりが社会をつくるという思想。この映画はそれを語ってもいるようにおもわれる。

血縁や宗教による非経済的な連帯、それこそがコミュニティであり、そのようなコミュニティが必要とする人間は存在に値する。法制度はそのように規定している様子である。社会にとってある人間が存在に値するかという命題に詭弁があることとは別に、コミュニティを社会機能としてとらえる態度は悪くないことのようにおもえた。

『エンジェルス・イン・アメリカ』「ペレストロイカ」

新国立劇場に『エンジェルス・イン・アメリカ』の第二部を観にいった。第一部から二日後の、夕方の上演を観た。

プライアーの前に天使が降りてきて第一部が幕切れとなったあとで、しかし登場人物の誰もまだ恩寵を受けてはいない。そこからどうやって「アメリカの天使たち」という表題を導くのだろうといっさい予断のないモードで待った。

天使が運んできたのは恩寵ではなく、神なき世界で人間は歩みを止めるべきだとする呪い(のように聞こえる指令)であった。預言者と名指されて困惑するプライアーは、病身をひきずりながらニューヨークをさまよって、「元カレの今カレ」をのぞき見たり、「元カレの今カレの家族」であるモルモンの信仰者に出会いもする。そのいっぽうでプライアーの前から逃げ出した「元カレ」ルイスは、その「今カレ」のジョーとロイ・コーンのつながりを知って激高するし、アフリカ系でクイアのベリーズは夜勤先の病院に担ぎ込まれてきたロイ・コーンを、憎々しさと慈愛の入り混じった態度で介護する。そんな具合に、第一部で提示されたキャラクターたちのあいだにより細かな人間関係が張り巡らされて、しかもいくつもの筋書きは必ずしもひとつのゴールに収斂しない。

迷い苦しみながらアメリカでもがく魂たちのありさまが切実に描かれている。ユダヤ人であること。同性愛者であること。有色人種であること。病人であること。モルモン教徒であること。共和党員として働いていること。幻覚に囚われて夢から覚められなくなること。友人の苦しみの前で無力であること。上司からの期待に応えられないこと。愛する人への献身が受け入れられないこと。考えることを止めて足を止めてしまったほうがずっとましなのではないか? そういう猜疑心を打ち破って、前に進もうとする意志を全面的に肯定する力強いメッセージが最終盤に提示される。それは戯曲が書かれた時代、レーガン大統領の象徴する80年代が終わって先の知れない世紀末に向かっていく時代にとって人類を祝福する心強い宣言であったことと同様に、明るいとも暗いともとれない未来にただ転がっていくしかない迷える魂を後押しする普遍的な勇気の声明であるのだと受け取った。

第二部はプロローグにボリシェヴィキの重鎮による新しい理念の到来を期待するスピーチが配されて、エピローグには「理念がなければひとは生きられないが、ひとが生きれば理念がそこに生まれる」という逆説的な意見が説得力をもって語られる。そのエピローグは 1991 年のセントラルパーク、ベセスダの泉に舞台が設定されて、ベルリンの壁の崩壊とゴルバチョフによる緊張緩和によっておとずれた、そこはかとない晴れやかさの気分がある。

いっしょに劇を観に行ったパートナーはこれについてこう考えを話してくれた。ソビエト連邦は滅びたけれど、それは共産主義の全否定ではない。それはソビエト連邦の逆が正解であることを証明しない。過去をまるっきり清算できることはない。未来はいつも、こちらが足を踏み出そうとする前に向こうからやってくるけれど、過去をみつめてみずから歩み直すこともできる。それはこの作品にふさわしい要約であるとぼくもおもった。

ロイ・コーンの姿が、第一部に引き続いて深く印象に残った。この男が陳腐な悪の肖像であることは他の登場人物たちの述べるところであるし、歴史上の人物としての評価もおそらくそのとおりなのであろう。しかし同情の余地もなく権力を振り回していくつもの不正義を犯したこの男は、感傷的な台詞を吐いて倒れるわけでもないのに、悲哀に満ちてみえた。大きな声で横柄に振る舞う彼のありさまは、ただ無神経なマッチョマンであるというよりも、名声という幻覚でみずからを騙し続けた哀れな魂のようにみえる。みずからがエイズに苦しんでいるにも関わらずなお有色人種と同性愛者を悪し様にののしる様子は、ユダヤ人であるという自分自身の変えられない属性をなんとかして遠ざけようとするもがきのようにみえる。自分の力だけで自分を救済しようとしている。それは無為にして哀れであるが、拭えない孤独感には真実味がある。

『エンジェルス・イン・アメリカ』「ミレニアム迫る」

新国立劇場に『エンジェルス・イン・アメリカ』の第一部を観にいった。

1985年。レーガン第二期政権のはじまった年に舞台は置かれる。見かけの景気はよさそうでいて、エイズと精神錯乱がプライベートな話題の中心に居座っている。エイズによって終わる関係、ゲイであることを自覚して終わる関係。そしてあたらしくはじまる男と男の恋の関係。八人の俳優がそれより多くの役柄を演じあって、つながりのないいくつかの話を群像劇のように示しているようでいながら、まとまりのなさに混乱させられたりすることはなかった。晦渋な台詞回しも少なからずあって、日本語の意味がわからなくなってしまう場面もあったのだけれど、それでもなんとなくおもしろくてもっと長く観ていたいと願った。

山西惇さんの演じたロイ・コーンという人物の姿が印象深かった。敏腕弁護士にして、反共主義者。同性愛の傾向を隠して、みずからの不調はエイズではなく肝臓がんだと強く言い張る姿勢。ジョン・エドガー・フーバーにかわいがられて出世したことを懐かしく思い出して、裁判所の貧乏書記官ジョーにワシントン栄転を持ちかけるのも、実は自分自身の身を守るためのコネクション固めであったりする。自分には勝利がよく似合うと信じて疑わない自意識過剰のいけすかない人物であるはずなのだが、権力にとりつかれたこの男が哀れにみえるようには描かれていない。むしろ、他の登場人物たちが後悔に苛まれ苦しみながら生きていることをおもうと、コーンくらいの破天荒さはかえって健康で、エイズに罹ろうともへこたれずに堂々と自分の矜持を持ちつづける姿は誇らしくも映る。

天使が空から降りてきて、プライアーが「ええ〜っ!?」と喜劇調に客席を見渡して第一部は終わった。悲劇的な人間関係がそこここに取り残されているなかで、そんな豪放磊落なやりかたによって幕引きをはかる脚本もよかった。深く理解できたとはまったくおもえないのに、おもしろかったと言い切ることもできてしまう気がした。たのしい芝居だった。

『スカイウォーカーの夜明け』

スター・ウォーズの第九作をみた。

ふたたびはじまってしまった物語になんとか決着をつけるために長い因縁を総動員して、それでどうにかこうにか話が終わることになる。観客としても、なんとか付き合いきれたという安堵を持っている。

レイの葛藤の根源は彼女がシスに堕ちることとされるが、その苦しみは十分には描かれなかったようにおもう。アナキンのようにはならないという意志があることはほのかに推察できるが、そのアナキンも最後にはジェダイとして帰還したという帰結は忘れられているようで、どうも悲観主義がすぎるような気がする。彼女の潜在能力が『ファントム・メナス』からの三部作で語られたアナキンの実力よりもはるかな高みにあるとは語られていないだけに、その不安ははなはだしい杞憂でないかと思わされる。

対して、レジスタンスは楽観がすぎて、どうにも緊張感がない。仲間や家族のつながりがあれば最後にはなんとかなる、というのは力強いメッセージであるが、それが序盤から強く出すぎてしまっていることはメッセージの効果を薄めている。期待が裏切られて破滅に向かうという緊張感があるならまだしも、これがシリーズにひとまずの完結をもたらすものだと期待して観る目には、彼らがみずからの善性を過剰評価していまいかとみえる。

カイロ・レンがレイとの決戦に敗れたあとに、過去のつながりに無言の励ましを受けるようにしてベン・ソロとして復活するところは、すぐれてよい。父の記憶と対峙して、決意したようにライトセーバーを海に投げ捨てる場面は、暗い空と荒れた海を背景にしながら、その不確かな風景はそのままに成長の一歩を踏み出す勇気をあらわしているようで、印象深い。彼がレイを救助しにエクセゴルにたどり着いて、ふたつのライトセーバーのひとつを受け取る場面も静かな熱気にあふれている。それだけに、レイの最後の戦いを準備するためにはここでもう用済みとばかりに、暗黒卿によって一時はかんたんに始末をつけられるということが興ざめだった。すべてが済んだころになって再登場して、使命を果たしたようにして消え去るのも、彼のような魅力的なキャラクターにあたえられたけじめとしてはあっさりしすぎていた。

総じて大味なアクションと超常現象の映画となっていて、そのエッセンスは第一作からいい意味でなにも変わっていないのだけれど、技術の進歩がストーリーテリングを陳腐にしているところもあるのだろう。第一作に肉薄する続編はシリーズを通していくつかあったにせよ、それを超克することはどうにもかなわないということもまた明らかになっている。とはいえ、最初のひとつを生み出した創造力がこのようにますます際立つことは、悪いことではない。

『最後のジェダイ』

スター・ウォーズの第八作をみた。

いくぶん大味なところと、シリーズのエッセンスを凝縮した部分が混在している。非常に出来が悪い部分がいくつもあったように記憶するいっぽうで、忘れがたい達成として印象を残した部分もおおくある。

優れていた部分。ルーク・スカイウォーカーが伝説のベールを脱いで、失敗した教育者としての後悔に対峙すること。カリスマ的な存在感を持ったカイロ・レンがはじめてみずからの野望のために立ち上がって戦うこと。それでいて、望む勝利まであと一歩のところでみずからそれを取りこぼすポンコツぶり。その奇妙なバランスを成立させるアダム・ドライバーの支配的な存在感。

悪かった部分。宇宙を漂って生還するレイア将軍。非戦闘員の命を軽くあつかって、爆殺をカジュアルに移すこと。劣勢の反乱軍が自爆特攻を繰り返してそれを英雄視している様子をみるに、さっさと破れたほうがましだと思わせる。すべての計画が失敗して、あまりにもおおくの命が無為に消えていくこと。主役級のキャストの運命に帳尻をあわせるやりかたがぞんざいであること。反乱軍が大劣勢のなかでも指揮系統のヒエラルキーに拘泥して内ゲバを起こしていること。いちどみな滅んでしまったほうがましだというのは、カイロ・レンのいうとおりにおもわれる。

しかしルークとレイアとハン・ソロがみな退場して、いよいよ老人抜きでレイとカイロ・レンの関係がいよいよノイズなく映されるとおもうと、なんだかんだといいながら次作をみることをたのしみにしてもいる。

ライアン・ジョンソン監督は、大学一年のときに新宿スカラで『ルーパー』をみた思い出がある。『ブレイキング・バッド』の第三シーズンで、ハエの話を撮ったのもこの監督であったことを知った。名前をきちんとおぼえられていなかったが、作品を印象に残す作家であるようだと意識するようになった。