ユユユユユ

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横浜市民アートギャラリーに「今日の作家展」をみにいった

先週末の話。横浜市民アートギャラリーに「今日の作家展」をみにいった。

古川結さんの、和紙に岩絵具が自由な色と形で提示される作品群の展示。小林達也さんの、「自分でもなにをつくっているかわからない」と韜晦する大きなペインティング。大崎清夏さんの、壁画のようにこちらを見下ろす詩のインスタレーション。これらをみた。

小林さんとはお話をさせてもらった。こちらが作品をじっくりとみている様子に声をかけてくださった。予期せぬことになにを話したものかとうろたえつつ、あれこれと作品の話をさせてもらった。なにもないところからなにもないところへ向けて作品を立ち上げていくプロセスは興味深いとおもった。注文や契約とは距離がある環境でものづくりをすることを想像すると、ぼくは仕事を終わらせられなくなってしまう気がする。それでも芸術は「完成」して展示される。なにをもって作品ははじまり、なにをもって終わるのだろう。そういうことを話した。

会場内で、大崎さんと永井玲衣さんの対談イベントを拝聴した。抽象度の高いトピックについて、抽象度が高いまま対話の形式として成り立っていることが刺激的だった。

最後に観客に発言権が許される時間があった。「生き延びる」とか「生きやすく」という言葉について、その背景で「死」という主題があって、それへの言及は無意識に回避されているとおもったので、そのことを話した。

セッションが終わったあとで、大崎さんの詩集の白紙のページにサインをいただいた。丁寧に書いてくださりありがたかった。

サインを待っているあいだ、でっぷりした美大生風の男性が妙な距離感でかたわらに立って彼女をみつめていた。圧迫を感じさせる位置取りだったとおもうが、誰もなにもいわずに沈黙しているのが奇妙な気分だった。大崎さんのマネジャーか友人なのだろうとおもえば合点はいかないでもないが、やや男性的な偏執の気配があったのが気にかかったまま、やぶはつつかずにお礼を言って立ち去った。

フェリーニの『8 1/2』

印象的なシーンはあった。たとえば大女のダンス。ルイーザの憤激。泥風呂でのめくるめくワンショットでのセリフ回し。

それらはみな、この映画が名作たるゆえんではなく、ジャンクに埋もれた一片の輝き、全体の成功に寄与しない一部の成功、とみた。

芸術家はいくたもの女に霊感をえて創作するという着想が陳腐であるから、そこをいくら反復してもどこにもたどり着かないのは必定とみえる。壮大な楽屋落ち。肩透かしであった。

この映画を人生最良の一作に選ぶ "映画人" がおおいということ。それはかつての業界の男性支配ヒエラルキーのあらわれ(いまはどうか知らないが)と眉に唾をつけて受け止めるのが賢明である。

つまるところはショーヴィニズムを偽善的に映像化した映画であって、同時代的な称賛はあったことはさておき、いまではまあ、意欲的な実験が部分的に成功した幸運な一例、というくらいのものにみえた。

大学生のころからずっと観てみたいとおもいながら、なかなかチャンスが訪れずにいた。午前10時の映画祭で上映するというので、金曜日を午前休にして新宿に観に行った。秋晴れの日に早起きして自転車で大久保通りを走るのは気持ちがよかった。

黒澤明の『天国と地獄』

夕暮れに話ははじまる。主人公権藤が勤め先に敵対的買収をかける計画が披露されたあとに、誘拐犯からの最初の電話と、警察の秘密の介入によって舞台のお膳立てが整って、他人の子のために身代金を支払うか、支払わないか、という問題に煩悶する演劇仕立ての密室劇が前半を占める。決心を決めたと宣言することが、決心を決めたと自分に言い聞かせて喝をいれているだけだという演技があったり、情にあてられて為すべき大事を逃すことの悔しさと、大事のために倫理を犠牲にすることの「痛し痒し」の性質がひとを苦しませる。

倫理的名誉と世俗的名誉が長い戦いを戦って、最後には倫理を通す。現金受け渡しのかばんに滅失防止の細工を仕込む手作業をみずからこなす権藤の、非情なビジネスマンになろうとして最後にはなりきれない靴職人としての姿が印象深く映る。ものづくりの倫理。経営を志しても技術者の美徳を失わない大きな背中。

身代金の引き渡しは特急こだまのなかでおこなわれる。車内放送で呼び出された権藤が電話に出る(外から車内に電話を掛けられる仕組みがあったことが興味深い)。そして 7cm だけ開く非常窓から現金満載の手提げかばんを放下するよう命じられる。みずからのキャリアのために、身代金を支払いたくないとあれだけ苦悩した男が、誘拐された子の姿を列車の外にみて必死の叫びをあげながら力の限り素早く金を手放す演技に切実な真実味がある。これは三船敏郎の技術。誘拐犯が置き去りにした子供のもとに車から飛び出す姿も痛切。抱き合う大人と子は後景に映されて、フォーカスのあたる前景にはそれを遠くにみつめながら、権藤の協力のかいあって人質の解放に成功した刑事たちの背中。道徳のために権藤が支払った代償を知っているから「これからはあのひとのために犬になるのだ」という仲代達矢の静かな、しかし熱気のこもった檄も忘れがたく耳に残る。

後半は横浜と湘南を行き来して犯人の足跡を追いかける探偵ものに展開する。カーテンを締め切った部屋で倫理をめぐる対話を重ねていた前半にくらべるとずいぶんトーンが変わる。路上シーンの撮影がおおく、市井のひとびともおおくあらわれる。この時代の文化習俗の痕跡もフィルムに焼き付けられている。

聞き込みをもとにして証跡をつみかさねて刑事たちは共犯者をつきとめる。刑事捜査の現実は知らないながら、素人目には細部にリアリズムを感じさせられる脚本に熱中していた。共犯者のふたりが麻薬中毒者であったことと、すでにオーバードーズを装って消されていたことがわかる。マスコミに根回しをしてその死を隠して、新聞上で犯人と駆け引きをする。犯人の姿とその生活のいったんを観客にだけ先に種明かしする演出のやりかたもおもしろい。

警察側の報道戦略によって犯人は浮足立って、受け渡し用のかばんの処分にうごく。そのとき権藤が仕込んだ細工が機能して、横浜の街に桃色の煙があがる。これで犯人はつきとめられる。そこで終わらせないことが粋である。曰く、誘拐ではたかだか15年の刑が限度になるが、それでは権藤が奪われたものの重さに釣り合わない。物的証拠を固めるために、殺人衝動を再燃焼させて、そして極刑に追い込もう。そう動く。山崎努の演じる主犯は警察のプロット通りにもういちど薬物を購入して、阿片窟での人体実験でもうひとつの命を奪い(これは警察の落ち度)、ふたたび共犯者の「処分」に向かったところでお縄になる。月の光のまぶしい別荘地でおもわず左右から追い詰められると、ここまで握りしめてやってきた手のなかの薬物を飲み込んで自殺しようともがくが、それもかなわない。手錠がかけられる。

死刑囚となったこの男による述懐のシーンが最後に挿入される。夏は暑く冬は寒い狭い部屋から見上げながら、見晴らしのいい丘のうえの権藤邸をやがて恨むようになったという。やり場のない若い怒り。医学インターンをしていてもこの世は地獄とうそぶくそのすがた。それを反抗の物語として青春的に描く代わりに、その反発精神におびやかされる市民の物語として描いているところにこのシナリオの特徴があるようだ。

罪と罰』の問題設定に近づいているようで、殺人者の葛藤にはほとんど踏み込んでおらず、結果として不条理犯罪の苦い後味だけが残る。医学生をしていることが犯罪インテリジェンスの高さの根拠となっているが、それにしては大金の使いみちも不明だし、後始末になにかと無計画がすぎる。この若い医学生は異常な心理を持っていた、という大雑把な総括に行き着いて、そこから先に広がらなくなっていないか。犯罪者側の普遍をあらわすなんらかの道筋を最後のシーンで提示できなかったことが惜しい。結局のところ、善悪二元論、勧善懲悪の物語におさまっていた。それでも十分に楽しませられたが、警察がひとり勝利し、経営者は生き延びるも、貧しきものは死に追いやられて終わり、というシナリオをよく省みると、あまり無邪気に喜ぶことはできない。

小野絵里華『エリカについて』

新宿紀伊國屋書店をふらっとおとずれたら、一階と二階のフロアが大きく改装されて公開されていた。そういえばしばらくのあいだ二階の文芸コーナーがアクセス不能になっていて、眺めたい棚がどこにいってしまったのかわからなくなっていた。昔ほどにしょっちゅうおとずれなくなっていたので、よるたびに驚いて、驚いたことを忘れることを繰り返していた。

大崎清夏さんの詩集をアマゾンで購入して読んだ。アンソロジーでない、単行本の詩集を持つのははじめてだった。で、他にもいろんな詩集をみてみたいなあとおもって、現代詩のコーナーにいってみた。そこで平積みされていたのが『エリカについて』。有名詩人の推薦文を帯にまとっていて、売出し中のようすだった。エゴを全面的に押し出している書名にフックされた。近傍のどの詩集よりも目立っていたとおもう。ぱらりと立ち読みをして、ああこれはちゃんと読みたいとおもって、読み比べて選ぶということもせずにセルフレジに運んだ。

英詩は韻律にもとづいて改行する伝統があることをわかっているから、そこに近づいたり離れたりする運動として自然に改行を受け入れて読めるのだけれど、日本語現代詩の改行は韻律から離れてあまりに恣意がすぎるような気がして、浮足立ってしまうから長く読み継いでいけない。そこが自分の日本語現代詩への苦手意識であり、没入を拒む障害点だった。

ここでは改行をめったに使わずにガシガシと言葉をならべていくスタイルの作品が少なくない。それはいっけんして散文調にみえるが、イメージを飛躍させる余白がことばの連続面におおくとられているので、読み味としては正しく「改行のない詩」であるとかんじる。改行がないところに改行を読むことができる。それを明示しなくても、言葉に内在する質があらかじめ余白を組み込んでいることがわかる。

かといっていっさい改行を否定するという闘争に踏み出しているわけではない。散文調のなかでも改行はおのずからあるし、句読点で切れることもある。改行による切れに注意してしまうのはこちらの執着にすぎない。実際のところ、句点をつかわずに短く音を切って成立させている「現代の恋愛」「初夏の記憶」のような作品もある。「エリカについて」もそう。そしてそれらはいちいち素晴らしい。おお!

表題作「エリカについて」を読むと、それはあるいっときの意識の流れをすくい取ったような、ひとつの連なった語りにみえるのだけれど、よく読むとナイーブに書かれたものでは決してないようにみえる。注意深く慎重に構築されている。ナイーブにみえるのであればそうみせようと意図して作り込んでいるからだ。そんな気がする。一瞬のおもいつきとして叙述していくには、長さを増しても失われない持続する密度がある。名前を間違えられてざわめくことと、自分自身が名前を突き放して惨めになることの反復、それを支えるためにいくつかの魅力的なエピソードが物語仕立てに織り込まれている。それでいて、ここぞというところではこういう韻のよく整えられたスタンザも用意して、自由な口語調のなかにリズムの格式をつくりだしている。

おお、エリカは拡散していく
唯名論はいかがわしいのに
このエリカのよそよそしさ
ユリイカ

それからこうやって、名前の文字列を擬人化して、エゴと名前を併置して、どちらに言わせるともなく「バカ!」と突き放して切断するやりかた。

ってこのさい、私は絵里華と一緒に、
おお、絵里華よ見捨ててゴメンといいながら、
絵里華と一緒に泣いている
バカ!

「絵里華と一緒に」と繰り返して冗長気味なトーンを生んだあと、ただちに「バカ!」で停止する爽やかさ。欺瞞の叙情におちいりかけた自我をすこしだけかいまみせておいて、沈まぬさきから急いで転調する華々しさ。

どうやってこういう書き方ができるのか、書けたとして、どうやって推敲の目で切らずに残すことができるのか。やっぱり一気呵成に書かれているような気もするし、でもよく構成の行き届いた詩である気もする。説明のおよばないところに魅力をおよばされているのだとおもう。

ヴィスコンティの『ベニスに死す』

セリフの比重が大きくないわりに、じっくりと演技をみせるということもしてくれず、遠くに配置したカメラをしつこくズームインして登場人物の顔がスクリーンからはみださんばかりとなり、ちょっと動くだけでも画面のなかでは激しく動いてしまって落ち着かないようなことが繰り返されて、最初の1時間くらいはあんまり楽しくみられずにいた。ブルジョワ階級の悠々自適なホテル暮らしを、動物園で動物をみるような気持ちで眺めるくらいしかなく、退屈だった。ヴェネツィアの街もほとんど映されることはなく、1911年の景色を仮構したロケーションはビーチさえもあまりきれいにみえなく(そのリアリズムは興味深い)、こちらまで不満足な旅行の気分でいた。

終盤になってようやくリズムが同調しはじめてきたのか、あるいは演出の意識的な変化があったのか、急に注意を引き付けられるようになって、そこから最後までは歓喜のモードが持続した。市内の換金所で疫病の「真相」を教えられるあたりからおもしろくなる。恋する老人が、死化粧のようにおしろいをたっぷり塗って白髪染めもして、あちこちに火のあがる剣呑なヴェネツィアの街を、美少年のあとを追ってあるきまわる。ピエロのような立ち回りが切実でこちらまで胸が苦しくなる。そこにかぶさるマーラーのアダージェットは、全編を通して反復されてきた効果が最後にもっとも素晴らしい形であがっている。

タッジオは美しい。ダーク・ボガードの男らしくない演技も秀でている。それでもなお、これはトーマス・マンの描いた死の運命を前にしたつかの間の耽美という主題があってこその映画であって、小説の世界を正しく実写化した結果として、当然に成功したという見立てをもってしまっている。つまり、うまくいくのがあたりまえのプロジェクトを、期待通りに成功させたもの、というぐあいに、意地悪なみかたをしてしまう。

原作小説の凄みは、おそろしく粘りけのある主題を中編として成立させた筆力にある。円熟期の文豪の厚みのある仕事の質に瞠目する。それを長編映画として再編するというのは、原作の神秘をすこし世俗化していないかなと感じる。

Light in August by William Faulkner

肌の白い男。彼が容疑を受ける殺人、放火、逃走。生まれたときから黒人の血が流れていると疑われて、自分が白いか黒いかも、なんのために生まれてどこに向かっているのかもわからずに、数少ない知己とのすれ違いから破滅のほうに押し出されていく。

身重の若い女。逃げた夫を探しだすあぶなっかしい旅行の途中、殺人事件に揺れる町のひとびとの助けを借りて出産する。天真爛漫で無知。しかし生まれたての息子を抱いてたったひとりで立ち上がる強靭さをもった女性の姿。

黒人解放論者の末裔の寡婦。彼女の家族がいかにしてこの土地、ジェファソンに至り、そしてサートリス大佐に処刑されるか。中年にして性的に目覚める彼女がどのようないたずらに身と心を焦がすようになるか。

シングルマザーに恋する奥手な中年男性。日々をつまらなく、ぼんやりと暮らしてきた彼が、よく似た名前の人違いから夫のいない妊婦に一目惚れする。すべてを彼女に捧げる勢いで奉仕したかとおもえば、新しい生命の誕生にショックを受け、逃げだす。彼女を二度捨てた浮気男に決死の戦いを挑み、圧倒的な有利を活かさなかったことに烈しく逆上されて殴り倒される。

先祖の伝承に取り憑かれた牧師。25年前の妻のスキャンダルによるキャリアの破滅。リンチすれすれの脅迫を受けても町に留まる狂気。バンチの助けに応じて分娩を手伝う。

脱走犯を追う愛国者の完璧で残酷な仕事。流れ者ふたりによる密造ウイスキーの販売ビジネス。孤児院での幼い人種差別と拉致。未婚出産をする娘の分娩に医師を呼ばずに死なせる父親。生まれたばかりの赤ん坊を捨て子にすること。

貧しい家庭の宗教的厳格。母の気づかいを拒否して乱暴する青年。10セントのパイ。若いことのどうしようもないつらさ。

物語はぜんぶで21章あって、さらに各章のなかにいくつかのエピソードが書きわけられている。

断章ごとに主人公が変わることは珍しくなく、しかも描写のしかたも、現在時制でリアリスティックに語られることもあれば、匿名の噂話や又聞き体裁による不確かな過去形の体裁で語られもする。

ひとつのことを複数の異なる立場から描くこともあるし、事前にほのめかされていた小さな光景があとから肉付けされておおきく膨らむこともある。

第一章でみえた煙の柱が、バーデン婦人邸の火事であることはあとから知らされる。燃える家のなかで首の切られた死体が見つかることはさらにあとからわかる。バーデン婦人の来歴と仕事、殺人容疑者との関係はもっとあとから出てくる。ひとつの結末に物語が収斂していくのとはてんで逆に、ひとつの景色を契機に物語が発散している。そしてそれがフィクションを作り物らしくさせずに、本当に生きたひとびとの、本当にあった話が書かれているかのような説得力を与えている。

孤児院のエピソードもおなじように広がっていく想像力をもっている。孤児院の栄養士が職場でいけない恋の遊びをしている様子を5歳ばかりの子供に聞かれて憤慨する様子。第六章より、これは端的にこの栄養士の性格を要約する切れ味の立った文。

The dietitian was twentyseven--old enough to have to take a few amorous risks but still young enough to attach a great deal of importance not so much to love, but to being caught at it. She was also stupid enough to believe that a child of five not only could deduce the truth from what he had heard, but that he would want to tell it as an adult would. (123)

そして彼女はボイラー室の見張り番の男に近づく。彼は壮年であるというのにこんなつまらない職場にいて、5年前にこの孤児院で働きはじめて、その年のクリスマスにこの子がみなしごとして入所して以来、憎しみのこもった目で見張り続けている。5歳の子のほうもまた、この男がどうやら自分を強烈に憎んでいるとわかっている。

He knew that he was never on the playground for an instant that the man was not watching him from the chair in the furnace room door, and that the man was watching him with a profound and unflagging attention. If the child had been older he would perhaps have thought He hates me and fears me. So much so that he cannot let me out of his sight With more vocabulary but no more age he might have thought That is why I am different from the others: because he is watching me all the time He accepted it. (138)

この章は、この狂信的な壮年男性による拉致未遂から解放されて、孤児ジョセフがマッケカン家の養子にはいって幕を閉じる。見張り番の狂った男はひとまず忘れられる。第十六章に、ハインズ夫妻が牧師をおとずれて、殺人犯が彼らの孫であるという話を開陳して、それは思い出される。ひとり娘を見殺しにして、残った子供も奪い取った狂人が、自分だけはこの子供は呪われていると監視しつづけた。グロテスクな執着--それは直接は語られないからハインズ婦人も牧師も知らない。読者にだけ知らされている。それを知らされると、30年にわたる時間の流れのなかで、脇役たちがどのような人生を送ってきたかについてこれまでの配慮を示して整合性を与える作家の手さばきにため息がでる。

英文で500ページ、翻訳で600-700ページある長い文章は、複雑なプロットがおのずと物語を長くしているというわけではかならずしもない。あらゆる細かな歴史と人間関係の描写によってそれだけ分厚くなっていて、それをもたらしているのはいわば細部の冗長な書き込み、饒舌なおしゃべりのようなディテールである。

たとえば終盤になってはじめてあらわれて、たったひとつの仕事を成し遂げるための役割を与えられているパーシー・グリムという軍人がいる。彼のなす仕事とは、ここまで長くその半生と犯罪、また逃走劇が語られてきたジョー・クリスマスをとうとう射殺することであるが、その死刑執行を語る前に、グリムという人物の造形、彼の聞かん気なまでに強情な愛国心ありさまが、いやに充実したエピソードとして書き込まれている。そのうち最初のものがこれ。

In fact, his first serious fight was with an exsoldier who made some remark to the effect that if he had to do it again, he would fight this time on the German side and against France. At once Grimm took him up. "Against America too?" he said. "If America's fool enough to help France out again," the soldier said. Grimm struck him at once; he was smaller than the soldier, still in his teens. The result was foregone; even Grimm doubtless knew that. But he took his punishment until even the soldier begged the bystanders to hold the boy back. And he wore the scars of that battle as proudly as he was later to wear the uniform itself for which he had blindly fought. (450)

こうしたまっすぐな軍人のありさまを、皮肉とも称賛ともとれる具合に逸話として描いたうえで、物語は現在の殺人犯と軍人の対決になる。おそろしい結末、かえってこの軍人のほうが悪魔的にさえみえる所業は、あらかじめグリムの盲目的な職業意識の合意があったから、その残忍ぶりもさもありなんという説得力をもって、忘れられない後味を残している。

Grimm emptied the automatic's magazine into the table; later someone covered all five shots with a folded handkerchief. [..] When the others reached the kitchen they saw the table flung aside now and Grimm stooping over the body. When they approached to see what he was about, they saw that the man was not dead yet, and when they saw what Grimm was doing one of the men gave a choked cry and stumbled back into the wall and began to vomit. Then Grimm too sprang back, flinging behind him the bloody butcher knife. "Now you'll let white women alone, even in hell," he said. (464)

こうしてしばしば饒舌のほうに傾く書き方をしているが、ときには象徴的な比喩によって端的に要約するシャープさも持っているから、長い文章も冗長に陥らずに堂々たる読み味を残している。これはバイロンが善人と悪人のちがいを説明して、善人として生きることの厳しさをたとえ話で説明する断章。

I mind how I said to you once that there is a price for being good the same as for being bad; a cost to pay. And it's the good men that cant deny the bill when it comes around. They cant deny it for the reason that there aint any way to make them pay it, like a honest man that gambles. The bad men can deny it; that's why dont anybody expect them to pay on sight or any other time. But the good cant. Maybe it takes longer to pay for being good than for being bad. (390)

それからこれは、白い肌の人種アイデンティティに揺れるクリスマスが黒人と交換したブーツに履き変えたことを、底のみえない暗い深みに足を踏み入れたと同時に、もう洗い流せない潜在力がくるぶしからこっちに染み寄せてきている、と象徴的に述べる場面。

At last the noise and the alarms, the sound and fury of the hunt, dies away, dies out of his hearing. He was not in the cottonhouse when the man and the dogs passed, as the sheriff believed. He paused there only long enough to lace up the brogans: the black shoes, the black shoes smelling of negro. They looked like they had been chopped out of iron ore with a dull axe. Looking down at the harsh, crude, clumsy shapelessness of them, he said "Hah" through his teeth. It seemed to him that he could see himself being hunted by white men at last into the black abyss which had been waiting, trying, for thirty years to drown him and into which now and at last he had actually entered bearing now upon his ankles the definite and ineradicable gauge of its upward moving. (331)

新潮文庫の翻訳本を今年の5月に買っていた。なんとなく読もうとおもって、デスクの端においたまま、分厚いなあと眺めるばかりでなかなか手が伸びなかった。

8月に The Sound and the Fury を読み終えた勢いで、実家にあった原書のほうを読み始めることにした。少なくとも5年以上前に買って積んでいた。最初だけ読んで挫折していたはずとおもった。なぜならこの本について主人公たちの名前をかろうじておぼえているだけで、どのような運命が彼らの先に控えていたか、その物語をなにも記憶していなかったため。翻訳本を手に入れたときも、読んだことのない小説をはじめて読むくらいのつもりでいた。それが、どうもいちど原書で通読していたらしいことがわかった。

終盤にいたるまでまんべんなく下線のハイライトが残っていて、余白のメモ書きもたくさんあった。メモがなければ読み落としていただろう、あんがい深い示唆も書き込まれていた。それでもなお話の全体像はまったくおぼえていないものだから、まるで中古で買ってきた本を、知らない人の書き込みを手引にして読んでいるような感覚があった。筆跡は自分自身のものだから、奇妙な気分だった。

たしかなことはこうだ。形式上は一冊の本を読み終えたつもりで、その内容はすこしも読み取れていなかった。目が文字のうえをすべっただけで、なにもあとに残らない読書をしていた。もったいなかった。

もういちどじっくりと読み直して、前よりはずっとよく読めたとおもう。感動をおぼえた場面さえいくつもあったし、すっかりすべてを忘れてしまうことはこんどはないはず。

でも、ここまでまったく読めていなかったことが明らかになってしまうと、自分がこれまで読み終えたつもりになってきたたくさんの本が、本当に読めていたのかどうかが不安でしかたない。一生懸命に読んできたつもりでいて、なにもあとに残っていなかったのだとすれば、おそるべき徒労である。生きてなんの記憶も持てないというようにおそろしい。死ぬまでのわずかな時間のあいだにひとつでも多くの記憶を持ちたい、という「生きる意味」の定義が敗れてしまう。なんということだ。

もっとも、どんな本も完全に読み終えることは不可能であるともいう。書かれていることのすべてを理解した。もう二度と読まなくてもまったく構わない。ここ書かれているアイデアは用済みだ。そう言い切ることができないのは明らか。つまりどれだけ上手に読めても完璧というものはないのだから、どれだけ下手に読んでいたかと卑下することもない。たぶん上手いも下手もない。いまの自分がどれだけ切実に向き合うことができたかという質だけがあって、それは過去と未来の自分自身を含む第三者と比較することはあたわない。

『気狂いピエロ』

どんな男が話しているのかわからない、ベラスケスへの晦渋な批評のモノローグからはじまる。書きことばを読みあげていて、おそらく話者自身も意味を伝えられると信じていないし、伝えようとははなからしていない。伝わる意味があるとすれば、それは難しそうなことを難しく話す男がいるという事実だけだ。

明るい日差しのしたでテニスに興じる二人の若い女性のモンタージュ。路面の書店で夏用のスーツに真っ赤なネクタイを合わせたサングラスの男が絵本を小脇に抱えて昼間の店先を物色する。裸の男が空っぽの浴槽のなかにいて、火をつけたばかりのタバコを口の端に咥えて、背表紙に折り目のついたペーパーバックを目の高さに持ち上げながら、論述と言うには詩的にすぎるベラスケス論の朗読を続ける。小さな女の子を傍らに呼びつけて読みきかせる。美しいだろう。そう尋ねて肯かせる。

バスローブに腕を通しながら息子を探すと、あなたが映画をみにいっていいと言ったのでしょう、と妻に諭される。今週三回目でか。大砂塵はすぐれた映画だ。このごろはアホばかりだからな。妻との会話。「テレビ局を訴えてやろうか」「クビにされたから? そんなの負けるだけよ」パンタロンの広告。モノローグ。アテナイ文明、ルネサンス文明、現代軽薄文明。画家論の続きを読もうとして、妻が取り上げる。「仕事のオファーがあったら請けることね」

パーティー。真っ赤な部屋。車にまつわる固有名詞。シンメトリーの右端から男は動いて左へ。次の画面。エメラルドグルーンの部屋。ヘアスプレーの効用を説くブロンドの女と、それを聞く別の男。タバコの煙とともに横切ってなお左へ。次の画面。白の部屋。トップレスの女とスーツの男。左へ。英語と仏語の双方向の即興通訳を介したサミュエル・フラーとの映画をめぐる談話。映画とは、戦場。愛。憎しみ。死。ひとことでいうと感傷。次の画面。車の鍵をフランクに出させる。パイに突撃するフェルディナン。それをまきちらした瞬間、花火のモンタージュ

これが冒頭の10分。記憶をもとに思いだし書くだけでこれだけの印象があった。この先さらに映像は饒舌さを増していく。マリアンヌが登場し、フェルディナンとのかけあいをはじめて、目と耳への情報はあふれんばかりに増殖する。壁に留められた絵葉書、不自然に配置された銃、テクニカラーの衣装、口ずさむ歌が唐突に伴奏をともなってミュージカルに変わること。支離滅裂といえばそれまで。しかしそこに奇妙な一貫性があるという説得力がある。

独特のスタイルをとっているが、起こったことを誠実に描いて嘘はない。些細なことにこだわって細部を引き伸ばすことと、論理を省略して大胆に切断することは矛盾しない。キャラクターの描写ははっきりしていて、うわべの動機は説明不能にみえても、人間性の論理はたしかに描かれていると信じられる。切迫した語り口が造形されていて、それは一見して断片化しているが、背後にある本当のことはゆるがず、作家はそれをいたずらに語らない。そのようなスタイルによってしか表現しえないものがあるからなのだろう。

軽薄なふるまいをしたり、コミカルで非現実的な展開を織りまぜては脈絡もリアルさも破壊して、ほとんど取りとめがない。でも、嘘や手抜きや妥協の跡があるとは感じない。即興の演技や演出も多くふくまれていて、すべてを計算ずくで作っているとはおもえないのに、一貫した説得力があると信じさせられてしまうのはなぜだろう。ブルジョワ的な引用による知性のひけらかしがくどくないのはなぜだろう。テンポのよさとセンスのよさがあるからだ、というだけで終わらせたくはない。言葉にできる説明原理を見つけ出したい。

断片化したイメージが放り出されていて、それにこちらが糸を通して頭のなかで再構築するよう要請しているようにみえる。そのいっぽうで、すべてを完全に投棄してしまうことはせずに、愛・犯罪・死というかんたんな動機と結末はお膳立てがされている。要約は大枠としては可能であり、細部においては不能である。もし細かく語ろうとするのであれば、場面場面を列挙して、そこで起こったことをひたすら即物的に述べる以外にはなにを言っても空振りにならざるをえないとおもう。