ユユユユユ

webエンジニアです

解析、床屋、お好み焼き

快晴。早朝から一気に気温が上がり、暑すぎて嫌でも目が覚める。最高気温が37℃だという。梅雨はどこへいったのか。冷房を効かせた部屋で、昼休みをはさみながら、解析の勉強。

南中からしばらく待って、サンダルを突っかけて自転車で出かける。駅前でタイヤに空気をいれる。日陰にいても汗が出る。電車に乗り換えて吉祥寺へ。

ジュンク堂の文芸コーナーを物色する。和歌とか平安文化の解説書が妙に目にとまった。初学者向けの概論が充実しているので、かえってどの切り口のものを選べばよいか見失い、序文とあとがきだけをパラパラとみて、通り過ぎた。

夕方に床屋。飯能のムーミンバレーパークの話。猿の惑星の話。トップガンの話。スタローンの『デモリションマン』という知らない映画の話。出るころには頭が軽くなったうえ、程よく日が暮れはじめて、すこしは歩きやすくなっていた。

ジュンク堂に戻り、瀬戸夏子さんの『はつなつみずうみ分光器 after 2000 現代短歌クロニクル』(左右社)を買う。夏の終わるころに著者のお話を聞く機会があるかもしれないため。

そのまま近所の鳥貴族に向かう。行列ができていたため、同じビルの階上にあるお好み焼き屋にはいる。学生時代に2回ほど来たことがあったはず。相変わらずガラガラで、60席はありそうな店内に3人しか客がいない。外国人のウェイターを3人も雇っている様子だったから、もうすこししたら混みはじめるのかも。

なんとなくモダン焼きを頼む。生地が運ばれてきてはじめて、ここはもんじゃのみならずお好み焼きも自分で焼かされる店だと気付かされる。モダン焼きの作法はまるでわからないので、投げやりに麺を底面に敷いてこしらえた。窓を大きく開いていると、夜風が通って気持ちがいい反面、かつお節と青海苔がそこらじゅうに飛び散る。中瓶を一本。鉄板が近いからすぐにぬるくなる。

ラジオ講義への不満

解析入門の講義は第14講のローラン級数にはいろうというところ。ラジオ講義の解説は数式を口頭で読み上げるという前近代的な仕上がりになっている。コーシーの積分定理の証明の途中式をだらだらと詠唱しているさまを想像してほしい。不便を超えて悪質の域に入っている。

テキストを真っ黒にしてこれまで食らいついてきたところ、いざゴールがみえるとかえって余裕が出てバカバカしくなってきた。講義に期待することは止めて、インターネットで予習をしてしまおうと何気なくみると、うってつけのシリーズがあった。それがこれ。

https://www.youtube.com/playlist?list=PLDJfzGjtVLHl8CVEMGJ5DPN9w0jZen8dq

これで指数関数の定義からローラン展開に至るまでの議論の流れをまとめて、予習という目的を超えて復習も果たすことができた。留数定理の講義が予告されていたが、最後のビデオから2ヶ月が経ってまだ制作されていない。もっとも、残念という以上に、ここまで解説してもらってありがたい。

大学と動画サイトの対比という以前に、ラジオとビデオというメディアの対比を味わう羽目になっている。しかしまあ、ラジオというのは昭和を飛び越えて大正のメディアであるわけで、苦笑さえできない。数式とは本質的に文字記号であり、音声では代替不能であるということに、信念を持つひとはいなかったのだろうか。どうしてこれをラジオ講義として編集しようと思ったのだろう。

データベース('17): 全15回

放送大学の「データベース('17)」の講義を完走した。週に一課を一定のペースで進めるのではなく、気が向いた時間に数回分の講義をまとめて視聴するやり方で通した

データベースという言葉の語源が、50年代に米軍が持っていた情報集約基地のことをズバリ指して呼んでいたというのが面白かった。スプートニク・ショックに浮足立った米国が、その情報基地への核攻撃によりあらゆる情報を失うというシナリオを回避するためにデータの分散化・ネットワーク化に舵を切ったというこぼれ話が興味深い。知ったところで、トリビアルな歴史を学んだという以上に有益な知識とはおもわれないが、大学の講義というのは得てしてこのような余談こそがもっとも印象に残る。

とはいえ、前半のデータベースの歴史を概観するパートは、知識をいっさい持ち合わせなかった。慣れがないという意味では序盤が最難関でさえあった。中間試験ではそこあたりまでが試験範囲だったので、すこし危ういところさえあった。

後半の、リレーショナル代数から先、正規化、データ構造、トランザクションなどを詳解するに至っては、およそ持てる知識の復習というくらいの感覚で楽しく聞き流すことができた。加えて最後の数課では、グラフデータベースと分散システムを扱う。これもおもしろくはあったものの、 DDIA で読んだ知識がシラバスの範囲を十分カバーしていた。そう見立てると、かえってあちらのテキストの充実ぶりがあらためてうかがえて、名著であるとの確信が改まる。

データベースに関して、基礎的な、しかしある程度は包括的な知識を集中的に身につけるために、すぐれたカリキュラムであったとおもう。これくらいまでが大学で学ぶこと、というベンチマークにもなる。必ずしもアカデミズムに傾くのではなく、あくまで実用論に立脚しているというのも興味深い。ソラマチの CTO が出演して、 "現場での" データストアの技術選定というようなことを語っているのも印象的であった。

『私だけ聴こえる』

疎外感を感じるのは誰にでもあること。自分ではどうしようもない、神が与えた境遇に苦しむのは普遍的なこと。悩みや不満を共有できる相手がいることはたぶん、心からわかりあうこととはすこし違う。その宙吊りなアイデンティティを、コーダという名前で定義することができて、母数は少ないにせよはっきりと同じ属性をもった同胞を見つけることができるのは、かえって恵まれていることではないかとうがった思いを持ってしまった。

若い白人の女の子たちをもっぱらフィーチャーしているから、コーダの悩みと思春期の悩みが混ざってしまっていないかと感じた。親との関係にしても、コーダに特有の難しい関係性もあろうが、基本的には誰もが子として、続いて親として経験する物語である。悩まない者などいない。聴こえることによって親からの強力な信頼を担わされて重荷を感じることはあっても、『コーダ あいのうた』でそれを羨望する描写があったことにも対応して、それはむしろ家族の愛の強さを思わせて、素晴らしいことにこちらからはみえてしまう部分もある。

コーダの大人たちは、その不安を乗り越えて、コーダキャンプを運営する側に回った存在としてだけ登場する。しかしコーダの悩みを普遍的に選ぶのであれば、男の子たちにとってのそれはどうか、とか、大人になっても苦しむひとはどうか、とか、もっと多面的な切り取りかたはなかっただろうかと気になってしまう。非白人のコーダとして、東日本大震災での被災体験を語る男性も導入部でわずかに登場したが、彼もやっぱり悩める個人というよりは、自立した大人として映されていたようにおもう。

こちらはといえば、思春期などはるかに通り過ぎていい年をしているにも関わらず、気分は学生のころとさして変わらず、ウダウダとした迷いがおおい。地元にいても物足りなく、しかし東京に来ても、欧米に行っても、いまいちピンとくる居場所はまだ見つけられていない。英語を話せて、日本語も話せて、地元の方言も話せるというときに、自分の居場所はどこなのだろうと迷ったことは何度もある。いっそ大学にさえ進まず、地元にとどまることを選んでいたのならどうなっていただろう、と想像したこともあった。

コーダの少女が、いっそろうになりたいという願望を見せるところは、普遍的な実存の迷いを描いているが、問題提起のスコープとしてはあくまでコーダという存在に着目したものであったから、自分の問題に重ね合わせて考えることはうまくできなかった。

『マイスモールランド』

大学3年のとき、『ペルシア語文法ハンドブック』という文法書を、その著者の吉枝先生の研究室で買わせてもらった。それをカナダ留学に持参して、在カナダのイラン系移民の子どもたち(彼らは親の言葉を話せないのだった)と一緒に、ペルシア語の授業を受けていた。英語を使って別の外国語の勉強をするというのは初めてのことで、例えば単語を覚えるにしても日本語との対応において暗記する代わりに、英単語との対応関係で学んだ。

高円寺のボルボルというイラン料理屋を、年に2回は訪れている。今年は3月21日、春分の日に食事に行った。ノウルーズとはペルシア語で新年といい、その日はお正月のお祝いをしにきたイラン人たちで大繁盛していた。

クルドという民族については、そういうイランへの関心からいつか知ったものだった。民族自決と騒がれた時代に、近代がひいた国境によって分断され、国家を持たない民族としてとなったひとびと。日本では、埼玉の蕨にコミュニティが存在して、しばしば建設現場で働いているらしい。

あらかじめ持っていた知識はそのようなものであった。まったくなにも知らないわけではないけれど、知り合いがいるわけでもなく、結局のところは他人事となってしまう。そんな折、この映画が日本におけるクルド難民を扱って評判を呼んでいるということを聞いた。ぼくが知るころにはすでに公開からしばらく経っていて、一日に一回だけの上映とうまくスケジュールを合わせられず、なかなか観にいけずにいた。しかしこの週末は午後に上映があることを発見して、月曜日で終映するというギリギリのタイミングで、鑑賞に駆け込むことができた。

ひとりの若い女性の話として虚構化されているが、ひとつひとつの嘆かわしい挿話は、実在するある家族に訪れた事件のルポルタージュになっているのだと信じざるを得ない、切実な真実味をもって提示される。

日本語、トルコ語クルド語を操ることのできる彼女は、家族からも、クルドコミュニティからも、アルバイト先からも、アパートの大家からも、一人前の大人として信頼を得ている。そういう立場があるから、彼女はまだ高校生であるにも関わらず、どこか周囲よりも大人びた態度を人格のなかに刻んでいて、思い悩むその後ろ姿は、とてもティーンエイジャーのものとは思えない悲壮感を持っている。

学校に通い、アルバイトをして大学を目指そうとする聡明な少女が、彼女にとってはどうしようもない出自の問題によって足をとられて、すべてのものごとが悪い方向に進んでいってしまう。その一連のシークエンスは、あまりの痛々しさに目を背けたくなるものであった。抑制的であるからこそいっそう深い苦しみを感じさせる演技で、日本におけるクルド人という立場を切実に表現しきったのは、嵐莉菜さんという。モデルの仕事をもっぱらとしていて、映画に関しては主演はもちろん出演も初めてとなる作品とのことである。

彼女の家族や友人をめぐる、いきいきと楽しい時間が実に幸せそうに描かれていることも優れていた。悪い知らせを受けた帰り途に、一家でラーメンを啜るシーンがある。そこでの家族の屈託のない会話と天真爛漫な笑顔は、演技の衒いがなにひとつみえない、ごく自然な幸せのありかたを映し出していた。それから、高校生の異性間の、友達以上恋人未満といったようなぎこちなくも優しい信頼関係の描かれ方もいい。アルバイト先の同僚というだけに過ぎなかった関係が、クルドというアイデンティティをすこしずつ開示するやり方で接近していくストーリーは、決してあせらずゆっくりとしているが、その緩やかさこそが青春の恋とも友情とも言い切れない甘やかさを示していて素晴らしかった。その相手役を努めた奥平大兼さんという名前もしっかりと覚えておきたい。

日本の入国管理局の問題というのは、その惨状がニュースで知らされることは少なくない。それをあらためて提示されて、正直なところ正視するにしのびない思いがある。ひどい話だとはおもっても、なにをどうすればよくできるのかもまったくわからない。関心を持つのが第一歩と聞いたりもするが、知って黙っているのも誤っている気もする。広く世界の難民問題とみれば、たとえば UNHCR に寄付するなどの支援のしかたがあることは知られているけれど、国内の行政の矛盾というのはいったいどうやって是正すべきなのか、と難しい問題を突きつけられて、どのような答えもまだ持てずにいる。

『トップガン マーヴェリック』

映画はフィクションだというのは大前提であるのに、それでも「そんなご都合主義なことがあるかねえ...」と醒めた態度でもって、リアリティがなくていまいちピンとこないんだよねえ、と気の抜けた感想を持ってしまうことはしばしばある。つまらない大人の仕草と言ってはそれまでだが、完全に楽しみきれないモヤモヤがあるからこそ、ディテールのツメの甘さにガッカリしてしまうのだとおもう。

その点、この映画はご都合主義の最たるものである。できないことをやりきる。気合で乗り切る。なぜそれが可能か? 運命的なヒーローがそう覚悟を決めたからである。しかしそれでなんの不満もないのである。ディテールをつべこべいう気にはとてもならない。すべてが予定調和であるが、すべてが完璧と信じさせてもくれる。映画の魔法、というのはこういうことを言うのだろう。トム・クルーズの存在感がその魔法を成立させている。すごい俳優だ。

ひとが機械を動かす。戦闘機にも乗るし、ヘルメットをつけずにバイクにも乗る。スピードに取り憑かれた狂人の顔ではなく、ときに爽やかな、ときにプロフェッショナルの顔つきで機械をコントロールするマーヴェリックがいい。工学と人間の関係をポジティブに描いているのもいい。マシンが耐えられる負荷の閾値と、人体が耐えられる負荷の閾値を、ギリギリ超えるところまで気合で追い込んで、戦闘機とパイロットの能力を限界まで引き出させる、というところにグッときていた。可能性の低いオペレーションに臨んで、必死に戦うパイロットたちをみて、ボロボロ涙を流しながら年甲斐もなく「ガンバレ!ガンバレ!」と口走らずにはいられなかった。それくらい没入していた。

前作は見ずに鑑賞したけれどなんの不自由もなかった。新宿の IMAX のスクリーンで観た。 IMAX で上映しているあいだに絶対に観に行かなければ、とおもっていた。昨日のことがあって気が塞いでもいたから、これを観るならきょうしかない、と覚悟を決めて臨んだ。

アートフィルムが好きなくせに、トム・クルーズを観に行きたいというのは矛盾しているんじゃないの、と皮肉をいわれたことがあった。映画は映画で楽しめればそれでいいじゃないの、と言っても納得してもらえず、もの哀しい気分にさせられた。そういう個人的な文脈があったことも踏まえ、太陽のようなヒーローが大画面と大音量で活躍する姿をみて、こうおもうよりなかった。エンターテインメントは必要不可欠!

So long!

恩着せがましいといわれた。そうなんだろうな。

自分に酔っているのだといわれたら、たぶんそうなのだろう。そうなのだろうから仕方がない。どうしようもない。ひとのためになにかをする。それを互いに幸福におもえる。そういう幻想を楽しめなくなったら、おしまいにするしかない。

恩着せがましい。そのとおり。ぼくはそうすることに幸せを感じていた。甘えさせておいて、いざというときに裏切る。あのとき言ったことと、いま言っていることが整合していない。嘘をつく。嘘をつかないリアルなマッチョは化けの皮がはがれた。

裏切る。裏切られる。傷つく。そう感じてくれるだけの信頼を持ってくれていた。ぼくはそこまで無私の信頼を持てていなかった。

友達に戻ろうといったのは彼女のほうだった。ぼくも同じ気持ちを持っていた。互いの世界がはっきり異なっていることはわかっていたけれど、きょうがそれを切り出す日とは考えていなかった。

さめざめとした空気のなかで、泣かせてごめん、といった。特別にキザぶったというほどのものでもない、素直なあわれみであった。それがゲームを終わらせた。恩着せがましい、調子に乗るな、女を自分よりも弱い存在に仕立てあげて、本当に弱い自分をごまかそうとするな。内向的な彼女に似つかわしくなくも、その知性を正しく反映した豊富な語彙で罵倒された。そして彼女は出ていった。

一緒に住むという話をしていた。そうしたいとぼくも主張した。迷いはあったが、一回きりの人生の可能性にベットしてみるのも悪くないともおもったのだった。しかし最後には迷いが勝って、いまは無理だといった。じゅうぶんな勇気を持たず、まっすぐ向き合わない。そのあいまいさにバチがあたった。

恩着せがましい、それは正しい。それは悪い。迷いをもつこと、それは正しい。それはよい。小さく誠実であろうとして、大きく不誠実であること。一緒に住もうと軽々しくいって、あとから取り消すこと。それは悪かった。しかし、そうしていなかったらやがてもっとみじめな気分になっていただろう。

ひとに優しくするよりも、自分に素直になれたこと。悪くはない。いいひとを演じて好かれるのも、悪いひとを演じて嫌われるのも、同じことである。いいほうに向かうほうが摩擦はすくないが、悪いほうに向かう愚かさだって人生の一部だ。そうしてお前は愛想をつかされ、自分のことを始めるのである。