ユユユユユ

webエンジニアです

ブログの引越しをします

ブログの引越しをします。

このブログは、これまでは jnsato.hateblo.jp にありました。これからは jnsato.com に移動します。過去の記事のお引越しは済ませてあります。いちどゼロにしてあたらしく仕切り直すというのではなく、中身ごと引越すというわけです。

昔のことを読み返しやすいように作り直してみます。自分が読み返したいとおもう記憶をブログから引っ張り出すことができない不便があるとおもったのです。本当のところ、自分にとってなにがどうなっているのが嬉しいのかはそれほどよくわかっていません。はてなブログの枠組みのなかでできることが不便を取り除くということもありえたでしょう。でも、なんだかそれじゃものたりない気もしたのです。

書いてきたブログをどう読み返すかということを考えていました。これまでは、このようにしていました。

  1. はてなブログにコピーがある
  2. Evernote にコピーがある

そして、検索機能を Evernote に借りて自分なりの日記のデータベースをつくるということが目論見でした。しかし、その Evernote は使い勝手を悪くして、ぼくの毎日つかうアプリケーションでなくなりました。困ったことです。

  1. はてなブログにコピーがある
  2. Evernote にコピーがある

はてなブログに、記録はあります。しかし5つより前の記事でなにを書いたか思い出せません。思い出そうともしないのです。そのようにして、ブログはあいまいな文章のアーカイブとなっていました。インターネット越しに回覧されているのに、自分ではなにを書いたかすっかり忘れている。もっとも、それがインターネットの特質なのかもしれませんが。

すべての記事をファイル化して保存することにしました。おもいきってそうしました。はてなブログから MovableType フォーマットの記事一覧をエクスポートして、記事ごとの単位に文字列を切り貼りしてファイルを分けました。ファイル化したマークダウンテキストは GitHub にプッシュして分散管理します。マークダウンテキストを HTML に変換して手作りの CSS とともに Cloudflare で配信します。それが jnsato.com でみられるものです。

  1. いつも使うパソコンのなかにコピーがある
  2. GitHub にコピーがある
  3. jnsato.com にコピーがある

実をいうと、はてなブログを使いはじめる前に、このようなブログシステムを手作りすることを構想したことがありました。でもやめました。システムを用意するほうに満足して、なにも書かずに終わるんじゃないかとおもったんです。なにも書かずに終わっていたら、それはそれで気晴らしになったでしょう。

パンデミックがはじまったころのことでした。仕事の切れ目にちょうどかち合って、はじめてみようとおもったのでした。書きはじめてみようと。プログラムでなく自分の文章を。はてなブログは、そのときにひょいとまっさらな石板を用意してくれて、ぼくはそのうえにかりかりとデータを書き込みはじめることができました。

インターネットに素朴に書くことを素朴に楽しんでいます。中学生のときにオンラインで恥をかく小さな経験をして、消極的に育ちました。いまやインターネットとはおとななりの付き合い方で、すこし私的なことをすこし考えてゆっくり読み書きすることに満足するようです。

あたらしいブログは、90年代のホームページみたいに真っ白な背景に青いリンクがおいてあるだけです。ああ、絵文字もありますね。絵文字は90年代にはまだなかったでしょうが。それがいまぼくがそこに引越してのんびりやっていこうというブログの形です。

robinbird さん。お会いしてあいさつする代わりに伝えさせていただきます。しばらくご覧いただいていてありがとうございます。気が塞いでいることをキャッチしてコメントくださったことはとりわけ、どうもありがとうございました。自責でつぶされそうになっていた折のことでしたから、やさしい擁護に救いをおぼえて感激しておりました。今後もおつきあいいただければ幸甚です。どうぞ引越しさきもご覧ください。コメント欄でのコミュニケーションはとられなくなりますけれども、お気づきのことがありましたらぜひご連絡ください。メールアドレスを引越しさきに掲示してありますので。

失業給付、おびえないこと、ミロ

ハローワークに三度目の訪問をしました。失業認定を受ける日だったのです。

受給のためにはいくつかの要件のうち少なくともふたつを満たさないといけません。ひとつは、国家試験を受験するということ。先月にデータベーススペシャリスト試験を受けたから、それで満たしていました。もうひとつは、ハローワークで職業相談を受けること。これをきょう満たして申請すればいいはずとみて、訪れました。

職業相談をしました。適応障害の診断を受けて、求職活動の成果は芳しくないこと。診断書は持っていないからそれを証明することはできないこと。きょうは認定日だから来てみたのだけれど、求職の準備ができていないのに訪ねてきてしまったこと。それではたしてよかったのか自信がないこと。前回に訪問してから仕事をした日が何日かあったから、それの申告はしておきたいこと。どれから話してなにをどう完了させればいいのかまったく見失ってしまって、あわあわと話しました。身体は元気なのに立場は失業者であることに引け目があって、うまく話す自信を失ってしまっていたようです。恥じることはないとわかっているのだけれど、ほんとうに恥がなかったら、自分を励ます必要もないわけです。そう考えると、やっぱり恥じる気持ちになって、舌がもつれました。

しかし担当の職員は「そうですか、では休みきったらまたやりなおすということにしましょう」と短くいいました。「きょうはおつかれさまでした」といっておしまいです。ありがたくも不思議なようでもありました。もっと尋問するような手続きが起こるのだとおもって緊張していたけれど、そこまで心配することはありませんでした。

別の窓口で認定を受けて、失業給付がおりました。それだけで暮らせるほどにたっぷりもらえるわけではないし、そもそもこれは生活の計算に入れていなかったお金だけれど、家賃と相殺するくらいの補償がもらえるのはありがたいことです。大事に使おうとおもいます。

失業保険の資格がぼくにあるということを理解していながら、自分がその受給者となることに、なんとなくおびえていました。もらってしまったから怖くなくなるというのは理性的でないような気もしますが、いまやすこし安堵しています。もうすこし支給を渋るような態度を表されるかと想像していました。きょうの訪問にもおびえていました。できれば受給しないで済ませられたほうが楽なんじゃないかとさえおもっていました。しかしおもえば、ぼくはこういう制度に保護されたことが、以前にもいちどありました。

コロナウイルスのはじまりの時期のことです。ぼくはフリーランスの仕事が切れて、二ヶ月ほど収入のない月がありました。世界が揺らいでいることのショックが甚大で、仕事をつなぐことは二の次にしていました。そしてそのようにして、前年比で売上を低下させたぼくに、百万円が給付されたのでした。

もらえるものをもらっておくことは、大事なことなのでしょうね。給付されなくとも暮らす工夫ができなかったとはおもわないものの、「武士は食わねど高楊枝」をひとに強いて支援をおこなわない社会は、よくないもののようにみえます。ぼくはどうも「武士は食わねど高楊枝」という気質の先祖に育てられて、おなじ傾向を持ってしまっていますが、黙って受けさせてもらえる支援があることは、ありがたいなとおもいます。

同時に、たかだかこればかりのことにしてはあまりにも緊張しすぎていた自分を観察しておもうこともあります。自分が弱い立場に立つことに慣れていなくて、過度に防御的になっていたように感じます。失業した自分を恥ずかしく考えて、一日でもはやく就労する意志を全身で表現することができているか? と、ぼく自身が誰よりも先に教育的視線を自分自身に投げていました。恥ずかしくなく生きられることは重要ですが、恥ずかしくないことだけが人生の目的ではないでしょう。

ひとにどう思われるかを自分の意欲よりも上位におく傾向があります。誰かに面と向かってそう批評されてしまったら、図星であります。だから、誰かに言われる前に自分を批評します。失敗を恐れるとき、ぼくは失敗することそのものよりも、失敗した自分への悪評や陰口が流通することを恐れています。そして、ぼくはこの前の仕事で健康を損なうトラブルがあったことを振り返って、トラブルの回避に失敗したことと、それによって悪い印象を残したことを、いまだに気にしています。それを避けるためには健康をいっそう犠牲にする以外に選択肢のない、極限の状況であったと頭は理解しているにもかかわらず、どうして自分は失敗してしまっただろうと自責がよみがえる瞬間があります。でも、ぼくはそれに蓋をします。

ひとに評価されなくてもいいとおもえることは幸いでしょう。去年 bunkamura ミュージアムでみたミロの展示で、神経質な作品を作っていた芸術家がやがて自由さを手に入れてのびのびとした創作環境を手に入れた様子をみたことをおもいだしています。成功したから自由になれたのでしょう、と皮肉にみることはできます。きょうはそれよりも、のびのびと生きるためにこそあなたは制作を続けたのですね、と感じます。

失敗に接近してこそ独創にいたることができるともいえるでしょう。だからといって、努めて失敗しようとすることは倒錯しています。自分らしさを自分で定義して、それを疑わない明るさをもつこと。卑屈にならず、ひとにやさしく、自分にやさしくあること。そうできればいいなとおもいます。

バイクに乗るための最初の準備は買い物です

最初の教習まであと二週間くらいです。

ブーツとグローブはおのおの用意するようにと教習所の説明書がいうから、東八道路沿いのバイク用品店にバスを乗り継いでいきました。バイク用品店にいくためのバイクがないって、服を買いに行くための服がないと嘆きたくなるのと似て、バカバカしいほど切実にこそばゆいものですね。

ブーツは本革のものにしました。いつも履く紐なしスニーカーは 27.5cm のものなのだけれど、紐があってやわらかく足の幅と高さにあうブーツを探すと 26.5cm がちょうどよいサイズでした。靴屋さんにいってサイズの在庫切れでほしいものを諦めるということが高校生のころに何度かあったものだから、なんとなく自分の足はおおきくて合う靴を探すのはむずかしいとみなしていたけれど、あんがいそんなことはなかったのかもとおもいます。あるいはただサイズだけであらゆる靴を選べるとおもうのが間違っていて、結局のところはメーカーごとに試し履きをして合わせてみないと自分にあうかどうかはわからないんですね。

グローブも革です。これを買いにいったのは先週のことなのだけれど、それからまたいっそう気温が下がったもので、寒さを防ぐのにこれでじゅうぶんかどうかは、いくぶん心もとなくなりはじめています。もっとも、おなじ並びにあった同じ価格帯で唯一の革手袋で、羊の毛が内側に生えていていかにもあたたかそうな品物は、試着しようと手にとったとたんにジンギスカン店のにおいがむっとただよって、大嫌いなにおいというわけではないけれど食欲と関係なくこのにおいがついてまわることにはどうにも耐えられないとおもって、そっともとに戻したのでした。ほかの手袋は、スノースポーツをおもわせる派手な色使いがあんまり好みではなかったのですが、そのどれかを選んでおくのが無難だったのかもしれません。まあ、冬に耐えられない革手袋でないとわかったら、春から使い始めればいいものではあるから、あまり悲観はすまいとおもいます。

冬の教習にとって、あるいはジャケットとかネックウォーマーとか、防寒のインナーやらも必要だろうと想像します。心配におもったり、教習もはじまらない先からなにが心配なのかよくわからなくなったりします。でもまあいいや、と区切りをつけて、これでひとまず最初の買い物はおしまいです。

スターフィールドのプレイ時間が50時間くらいです

前の月末からプレイをはじめて、3週間あそんでいます。それでまだまだ序の口という印象です。

メインミッションは進めないまま、ただ惑星間を飛び回って資源と生物の調査をしています。ストーリーをさっぱり追っていないのにたのしみが止まらないのはすごいこととおもいます。つぎつぎ探索をして、ときおりはさまるサイドミッションを片付けているうちに主人公のレベルは35まであがりました。

太陽系に飛んでいって、地球が氷に覆われた星になっているのをみました。散策してたのしい星ではありませんね。どのようにして居住不能にいたったかというナラティブが、やがてあらわれるに違いありません。いっぽう土星のタイタンには地球からの誇り高い植民者たちが暮らしています。地球とのつながりを守って受け継ごうとする語り部がいます。風力発電とメタン採掘を昔ながらのやりかたで続けながら、うまいこと暮らしているのだそうです。

人間たちは星系をまたいであちらこちらにいますが、生きることの悩みはおおきく変わりないようです。取引先に嫌なやつがいるとか、安い給料に見合わない危険な仕事に迷い込んでしまったとか、寄付の募集をゴキブリをみるような目でみる商人とか。プロポーズを断られたとたんに婚約指輪を盗まれたと騒ぐ男とか、伝統ある居住区に成金がやってきては困るとか。文明の範囲がひろがる以上に、人類の心根が根本的に変化するなんてことはありえないと、制作チームは強く信じているようです。しかしそのようなマイクロストーリーがちいさいなりに丁寧に描かれていて、よく準備されたゲームだなとおもいます。

坂口恭平さんの「生き延びるための事務」をあしたまた読もう

坂口恭平さんの「生き延びるための事務」シリーズを知りました。ポパイの最新記事の通知を受け取ってみにいって、そのまま一気に読んでしまいました。ポパイのウェブサイトで読めるのはコミック版です。それは途中までしか完成していないシリーズだけれど、文字だけのバージョンはノートにあがっています。そっちも読みました。

最初のいくつかの記事で、にわかに元気づけられたようです。言っていることは単純です。好きなことをやっていれば幸せである。幸せを感じ続けていたい。好きなことをし続けていたい。そのときに、ただ夢をみて過ごす代わりに、それを実現する具体的な計画を立ててみよう。それを仕事にしようと努力する代わりに、その仕事をもうはじめているみたいによそおってみよう。そのときそれはもうよそおいでなくて、手に入ったものになんの引け目も感じることはない。

計画を立てるというのは、仕事の筆頭です。まだここに存在しないなにかを、まるでここに存在しているかのようにみなして、分解しながらすこしずつそれに取り組んでいく。頭のなかにあるアイデアを書きだして、ぼくはこういうことをこういうふうにやっていこうとおもいます、とひとにアピールしながら、こつこつと仕事に取り組みます。アピールすることに不自由を感じて戸惑うこともあるけれど、計画を立てるのには好きなところもあります。はじめはなんの意味も形もない現実離れした妄想だったものが、このときまでにこういう仕事が必要だ、この作業には何時間かかる、みたいなことを積み重ねて、だいたいこれくらいで完成するはずだ、と文字にすると、それで仕事が動きはじめるようなのです。

計画、予想、想像、妄想と並べると、居心地の悪い取り合わせにみえるでしょうか。でも、これらがどうやら同一のスペクトラム上にあって、単にどれくらいそれっぽい雰囲気をまとわせるかによってのみ言葉を選んでいるように、ぼくには見えることがあります。事業計画とか業績予想というものが、失敗しないに越したことはないが、すこしくらいなら失敗してもいい発表として受け入れられているのが、ぼくを元気づけることがあります。「計画なんて偉そうにいってる、しょせんは砂糖をまぶした妄想じゃないか!」でも、砂糖をまぶす手間こそが大事ということでもあるんですよね。

ぼくは計画を立てるのは苦手でないつもりでいました。「ストーリーを想像する」「やるべきものを列挙する」「やりたいものも列挙する」「やらなくてすむものをきっぱり捨て去る」「ゴールを決めてそこから逆算する」「計画を実践しながら計画を修正し続ける」みたいな。うまくできるとうれしいなとおもいます。うまくできなくても、次はもうちょっとうまくやりたいなとおもいます。いままでそうやってこられました。

いま、すこし仕事をやすんでかけがえのない時間を過ごしています。最後にやった仕事のなかに、うまくできなかったなとおもうことはあります。ひとの計画とぼくの計画がぶつかって、ぼくの計画を譲歩するしかなかったときに壊れてしまったものがあったのかなとおもいます。ぼくがぼくの計画を生きられてたら、こう失敗したと感じることもなかったでしょう。もっとも、これはぼくの失敗というよりも、相性の悪いもの同士がぶつかってしまった、不幸な事故というくらいにしておくのがよさそうですね。

計画を立てるということ。いまぼくは、すこしぼんやりと過ごしています。毎日なんの計画も持たずに、晴れていればふらふらと自転車を走らせ、雨で寒い日は気分があがらずにベッドに横になって考え事さえもしないでいます。週に二回くらいはジムにいくほか、朝には短いランニングをして、昼と夜に散歩することもあります。悪くない生活ではあるのだけれど、いつまでこれを続けていいものかわからない不安もくっついています。お金の余裕がひとまずはあるはずなのに、なんとなくの社会的自意識から、求人サイトをぼんやり眺めることがあります。働いていないものはおかしなやつだという偏見があって、その偏見を自分に向けることを止められないようなのです。あわててはいけないよと押し留めてくれるひとが近くにいなかったなら、きっとあわてて動き出していたに違いありません。

計画に沿って生きるのは楽なんですね。あたえられた計画であっても、そこにいくらか自分で操作する余地があると信じる鈍感さが持てたなら、それはそれで満足できるようでもあります。でもほんとうにやりたいことは、自分の計画を自分でたてることなんでしょうね。坂口さんはそれを「事務」という言葉であらわして、あたらしい定義を作っています。ぼくはそれに元気づけられたようです。

目の前のお金の算段を片付ける。いまどんな時間を過ごしているかを明らかにする。やがてどんな時間を過ごしたいかを明らかにしてみる。それを実践する。

それであなたは満足できるはずといわれて、たしかにそんな気がします。ぼくの満足はそんなに水準の高いものではないとおもうのだけれど、ほんとうにそうかどうか確かめたいともおもいます。きょうからさっそく実践しようとあわてることはせずにおきます。あしたの午前中にもういちど冒頭の数編を読んで、手をうごかしてみたいなとおもいます。

あわてたくないという呪縛もあるようです。手を動かさない代わりに、坂口さんの過去のエントリを次から次に読んでいたら、だんだんと最初の感動が消えるのを感じました。消えてしまっては困るものです。それでこの日記を書くことにしています。

きょうはこれができればよし。あしたはあしたやろうとおもっていたことができればよし。できなくてもよし。またあさってやればよし。そんな具合にゆっくりエンジンをあたためます。

オルハン・パムク『雪』

オルハン・パムクの『雪』を読んでいました。藤原書店から出た、2006年の訳です。

世俗とイスラームの葛藤。西欧への憧れ、また憧れることの恥。信仰と自殺のジレンマ。軍人と学生。新聞記者、市長選挙、詩人。政治や名声への失望。恋だけを本当の気持ちとして信じられること。このようなものを東トルコのカルスという小さな町を舞台に描いて、よそでは読むことのできないムードを持った小説です。

ぼくはこれを、最後まで読めませんでした。三分の二ほどで挫折です。話が進むにつれて、文章がだんたんと頭にはいってこなくなってしまい、進められなくなってしまいました。

たのしみに選んだ本を最後まで読まずに諦めることはめずらしいことです。読めなくなってしまった理由は自分でわかっていると感じます。訳本の品質が高くないのです。書いてあることを信じられなくなってしまいました。

はじめに気づいたのはたんなる誤字です。一文字の印刷間違いがあって、そこまですらすらと読んで頭のなかに作り上げてきたイメージが、つまずきました。それを忘れて進もうとしたところに、第二第三のミスが続きました。そのうち詩的なイメージの推進力は消えてしまいました。ミステリアスな表現があったとして、それが作家のたくらみだと感じておもしろがるよりも、翻訳出版の過程でアクシデントがあって意味が抜けてしまったのではないかと疑ってしまいはじめるようになってしまっては、もはやたのしむことはできませんでした。

翻訳のミスなのか印刷のミスなのかはわかりませんし、残念がるより仕方がないものとおもいます。しかしこれが急いだ仕事であったことは、裏表紙のあらすじにおかれた飛躍のあるミスリードにも明らかであるようです。そこでは「イスラム過激派によるクーデター事件」が起こると説明してあるのですが、実のところ起こるのは軍事クーデターであり、「イスラム過激派」はむしろ彼らの自由を奪うためにクーデターが企画されるのです。

とはいえ、一筋縄ではいかない葛藤のありさまをたのしく読む時間をあたえてもらうことはできました。ストーリーテリングの枠組みは、現在時制で進んでいくようでありながら、不意に登場人物をまもなく死が襲うことを約束することが何度かあります。ガルシア・マルケスがやるようなさりげないやりかたは、はかないけれども好きだなとおもいました。

燐光群の『わが友、第五福竜丸』をみた

燐光群の新作舞台『わが友、第五福竜丸』を鑑賞した。

ある喫茶店の店主が、彼に店を引き継がせた父の悪友らが、夢の島の捨て船から拾ってきた舵輪を店に飾っている。盲目の女性がおとずれて、この舵輪の特別な力に引き寄せられてやってきたと語る。はやぶさ丸の舵輪。第五福竜丸のいわくつきの舵輪。喫茶店はモビー・ディックといい、このさきはもう登場しない。

第五福竜丸展示館で、全長30メートルの船体が展示されている。20メートルの大波を越えて、ビキニ環礁のさらに先まで漁にでかけた木造船。除染および再就航のために交換された部分もおおいにあるが、これは船の肉体そのもの。その船が、こつぜんと消失したと告げて、劇の長い旅ははじまる。

船は盗まれた? しかしおおきな船体を一晩のうちにどうやって展示室から運び出せるだろう。いくら深夜の夢の島に人気がないといっても。それとも、第五福竜丸は、もういちど海に出ていった? みると、はやぶさ丸として換装された部位は展示室に散らばって残されていて、消失したのは被爆した部位だけであるようだ...。

第五福竜丸は、はじめ汚物として帰還した。死の灰にまみれていた。汚染を取り除かれて、はやぶさ丸への生まれ変わりを強いられて、くたくたになって東京湾に打ち捨てられていた。所有権がどこにあるのかもわからなく、海の上のごみとみなされて、夢の島の埋め立て材料にまわされようとしていた。しかしいまにも沈みそうなその船を市民が守った。台風がやってきたら、ロープで陸につなぎとめて、水をバケツでかきだした。そのようにして守られた第五福竜丸が、展示館から消えてしまった。それは記憶から消えていくということを言い換えているようである。

そうして、市民の被爆をめぐって語るおおきい舞台はまわりはじめる。

高知の老いた漁民が、娘をがんで失ったことに打ちのめされて、自分は放射線に毒されているのだと絶望する。彼もまた、ビキニ環礁の核実験にまきこまれていたのだ。ただし、焼津の第五福竜丸ほどに過酷な海には近づかなかったし、焼津の被爆者たちの受けた風評被害を目の当たりにして、恐怖を告白することはできなかった。娘にさえいえず、孫にはなおさら語ることのできない過去。

夢の島の展示館の館員は、第五福竜丸船員の久保山愛吉さんが操作した無線機に刺激され、夜な夜なアマチュア無線に興じるようになる。地球の裏側から届く信号を受け取るのは、意味を判読できなくてもおもしろい。ローマ字に変換した日本語をモールス信号で送り出していると、あるときアメリカから同じように、日本語のメッセージを受信した。

ネバダ州の核実験。32万本の乳歯の検査をして、健康被害を証明した母親の団体。いっぽうで、キノコ雲をながめてプールサイドでカクテルを傾ける客をあつめる観光産業。

ビキニ環礁の住民も被爆、島は居住不能区域となる。除染によって安全はもたらされたと宣言するアメリカ政府にしたがって住民は帰還するも、帰還した矢先から死産流産があいつぐ。クラゲやタコのように形をとっていない赤ちゃんの死体...。ふたたび居住不能が宣言される。やがて補償金との交換で島に戻るよう彼らは持ちかけられるが、もはや島で自給自足の生活をすることはできない。仕事はない。ない仕事をわけあう。仕事のない時間は、ただぼんやりと話をして時間が過ぎていく。生きる甲斐はきわめてちいさい...島民は政治にもてあそばれるようだ。

ビキニ住民を強制移住させる国家のやりくちは、福島の原子力事故に話題を接続する。汚染土を福島から日本各地に拡散させることに義憤をおぼえる市民がかたや描かれ、他方には新宿区の自宅の庭にみずからすすんで汚染土を受け入れる市民が描かれる。「では福島にすべて押し付けるんですか?」と後者の登場人物はいう、「福島の電力は好き放題つかっておいて、汚れ物は東京に持ち込むなというのは、それこそわがままに聞こえますけれども...。」

そうはいいながらも、舞台は微量の放射性物質がどれだけ安全であるか明白でないことを、第五福竜丸と船員たちの被爆に繰り返し立ち返りながら主張する。70年前に俊鶻丸という調査船がビキニ環礁で広い海洋汚染を計測した。マーシャル諸島の海水が、核実験時の放射性物質を拡散させずに、濃度をたもったまま、太平洋を循環していることも判明した。海のなかには海流のつくる壁があって、その壁をまたいで水がまざりあうことはないと語られる。マーシャル諸島の水がほとんど薄まらずに東アジアに運ばれるように、福島の水は薄まらずに世界の海にはこばれて、それが未来の知識においてどれだけ合理的な決断であったかと知ることは、われわれにはできない。

終盤、はやぶさ丸の舵輪が発見されて舞台がはじまったことと対応するように、こんどは第五福竜丸が換装される前の、すなわち被爆時の航海をみちびいた舵輪が見出される。そしてただちに、被爆当時の乗組員たちの群像劇が挿入される。

未明の海で、あるものは天体観測を、あるものは料理当番を、あるものは寝そべって窓からはいるあたたかい南の風をたのしんでいる。西の空から光球がのぼる。日の出か? いやそんなはずはあるまい。光は3分もつづいて、さらに数分の間をあけて長い衝撃波が襲う。光と衝撃の到着時間の差から、200km弱先のビキニ環礁で "ピカ" の実験をしたに違いないと船員たちはかすかに知る。ただちに逃げなければ。しかし、失敗続きの遠洋漁で、最後にやってきた豊かなビキニの漁場で、最後の延縄さえ投げ出して帰る決断は、目に見えない放射能よりも恐怖すべきものだった。黒く低いきのこ雲の影が空を覆って、冷たくも熱くもないひらひらしたカスが降り始める。死の灰をおおいに浴びた労働のあとで、船員たちは急性障害を引き起こしていた。それでいて、母港焼津までの二週間の船路を前に、異常を知らせて救援を求めることはしなかった。周囲をアメリカ領に囲まれた漁場で悲鳴をあげるなり、秘密の爆弾を見てしまった取るに足らない漁民の命は、あっさりと滅ぼされるだろうとはっきり理解していた。船員のうちいくらかは、十年前に同じ海でアメリカと戦っていた。

帰っては、放射線障害との戦いがある。賠償を求める戦いがある。被爆していない人間がもたらす差別との戦いがある。第五福竜丸船員だけを救済するように補償金が支払われた。補償とは、悪を認めての賠償ではなく、手打ちをもたらすための、いうなれば口止め料。他方で、同じ海に漁に出ていたが同じほどひどく灰を浴びなかった漁船の働き手たちは、補償の外におかれて葛藤する。はたして自分は被爆していないのだろうか? 子や孫に障害は遺伝していないだろうか? 補償を求めて訴えることは、被爆者の烙印をみずから押して、苛烈な差別の前線にみずから乗り込む徒労とならないだろうか?

広島と長崎の原爆被害は知られるようになりはじめていたが、放射能という言葉はなお自然科学者を越えて広く観念が理解されるにはいたっていなかった。

このような群像を描いて、燐光群が問いかける悩みは果てしない。国を発展させるために働くプライドの高いひとたちがいて、誰彼にああしろ、こうしろといって、そこからは悪いことのみが生まれる。正義のために働く無垢のひとたちにのみ、悪いことはふりかかる。しかし彼らはそれを望んでいるようでもある。それが正義であるならば。

政治的主張は断固としている。それがただひとりの主張ではなくて、両手で数えられない人数の役者が熱気をともなわせて、きっと演じる自分自身が納得するように、おおきな声と身振りではつらつと演じて嘘のないメッセージを語っているところにすごみがある。舞台はこの世界がどれだけ悲劇に満ちているかを厳しく語って、ぼくはひとりの悲しい観客としてそれに心を痛める以外になにができよう、と苦しくおもいもするが、きっと最後にはうまくいくだろうという楽観もまたたずさえて劇場をあとにする。それはまるで神の正義への信仰によって苦難の乗り越えを図るようでもある。