ユユユユユ

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『シン・ウルトラマン』

怪獣との戦闘はおもしろい。それがバカにもわかるウルトラマンの力と勇気を見つけているからである。しかしそれ以外のパートでは、特殊な固有名詞とそれらしい政治劇で煙に巻くような構成が悪くみえた。

中身のない話をし続けるという意味ではたしかに空想映画の名に値するが、それはイマジネーションを羽ばたかせるという意味での空想ではない。皮相的な「リアリティ」をもたせて頭のいい大人に媚びを売っておいて、最後には全人類を包み込む大雑把な愛の話として解決するのは、風呂敷を大きく広げている割にはこじんまりとしたスケールで、より手触りのある大きなテーマをどうにも失っていなかったかとおもう。

空想映画に政治と科学を持ち込みすぎた。官僚と科学者を過大評価するという点で、シンゴジラと同じ欠点を持っている。しかしそれは、政治と科学を腫れ物のように日常あつかうわれわれの態度の問題でもある。社会を維持する彼らの専門職に敬意を払いつつ、健康的に批判する精神を日頃から持ってさえいれば、こういう劇は生まれるべくもないだろう。

いいところに目を向けると、メフィラスのキャラクター造形は凄まじい。彼の存在に説得力を与えながら、その生真面目な性格を台無しにしないバランス感でユーモアも添えてみせる山本耕史の演技は秀逸である。最後にはもっともらしい弁解を残して逃走するやりかたも、メフィラスの人格を抜群に表現しえていて申し分なかった。

西島秀俊もよかった。ドライブ・マイ・カーでみせたペーソスある佇まいが明らかに彼を名俳優として僕の印象に刻んだ余韻はそのままに、今作でも地に足のついた存在感で登場する画面のいちいちを引き締めていた。ほとんど脈絡なく彼の喫煙シーンが挿入されるのもいい。

彼らに共通するのはおそらく、論理優位な脚本に振り回されて登場人物間のコミュニケーションが浮き足立っているときに、どっしりと構えてそれに振り回されない自信を携えていることだろう。メフィラスのブランコ遊びや居酒屋での支払い、あるいは田村班長の喫煙シーンこそが、人間としての奥行きを持つ彼らを正当に描いているとはいえまいか。

斎藤工の演ずる神永隊員は、キャラクターの設定の都合上、無表情でとらえどころのない演出がされている。そのうえ神永というよりもウルトラマンとして強く意識される存在であるから、どうにも画面上での俳優の存在感は薄い。マスクをつけることが否応なく要請される特撮映画の主演というのは、役者の仕事としては得るものばかりではないようにみえた。

最後ながら、ウルトラマンとザラブが夜の東京で戦う場面にはたいへん満足した。壮大な夜景をバックに戦闘が起こるのはさながらパシフィックリムでの香港の戦いへの意趣返しのようであったし、そこで街の破壊を止め、市民を守るために空中戦に持ち込むウルトラマンの戦いかたは、圧倒的なヒーローの心強さをみせていた。