ユユユユユ

webエンジニアです

2022年はこんな本を読んだ

なにかを思い出したかのように唐突に、英語で人文書を読みだしたのはいいことだった。とりわけ Light in August をじっくり読み返せたのはよかったなあ。

そのほか、こういう本を読めたことでいい年になった気がするぞ! といえそうなもの。

History: A Very Short Introduction

Oxford University Press によるシリーズより、歴史学の簡明な入門書を読んだ。

「歴史とはなにか?」と問うのはなかなかやりづらい。どんな回答に納得できるのか、自分自身でもよくわかっていない。まして歴史の専門家であれば、その回答がいわばアイデンティティの根拠になるだろう。そして、アイデンティティについてかんたんに説明しようとすることは、ほとんど無謀な試みだ。

120頁ばかりの小さな本で、その問いを広げて畳みなおすことまでをひとまず終えているのだから、なかなかにすごい本だとおもう。いくつもの論点を並べ、魅力的な挿話を供給して、ひとまずの見解に収束させる。そのうえで、「歴史とはなにか?」という問いにいまいちど読者が向き合うことを促す。勉強するのはたのしいことですよと励まして完結する。

いろんな話題がでてきたけれど、ぼくはこう受け止めた。歴史とは、哲学の言葉で科学をやりなおすような学問でないかな。観察可能な情報を収集して、解析する。データを正しく整合させるように抽象化をほどこして、世界のなりたちを叙述する。

計量可能なデータをあつめて、数理の道具で抽象化するのは、自然科学の仕事である。収集・解析・抽象化の諸段階において捨象をこうむるものはおおいにあるから、これは世界を記述するたったひとつのやりかたではありえない。

違うやりかたで思考すること。それを励ますのが、歴史を学ぶことのひとつの機能である。人間は、生まれ、交じり、死んでいく。世界にただあらわれては消えていく。ひとつひとつの人生にはなにか重要な意味があるかもしれないし、まったくないかもしれない。人生の痕跡はしかし、望むと望まざるに関わらず、残ってしまうもののようだ。その痕跡を解析して、なにかを発見する。新発見があるとおもしろい。そういう好奇心に支えられてぼくは歴史に向かうことができるような気がする。

グローバルな理論系を共有して仕事をする科学者たちがいて、その理論系の(人工的な)明快さをもって科学に魅力をおぼえることはある。そこに客観的真実があると信じることはたしかに可能である。しかしその系はそもそも恣意的に定義されたルールである。そのなかで思考することはときに、ぼくたちはみな金魚鉢のなかで泳がされているにすぎないという気分にさせることがある。

人文学者の仕事も、自然科学者の仕事も、差はそれほどおおくないようにおもう。いっそのこと、およそ知的生産とよばれる営みはすべて同じようなものとさえ感じる。情報を集めて、解析して、抽象化して提出する。情報伝達のプロトコルがそれぞれ異なるだけで、手続きとしては大同小異とおもわれる。どのやりかたにも有効な時宜はある。人工的な数理を所与の道具として合意することと、自然言語を懐疑の対象として合意することを対照させて、後者がよりラディカルであると信じたくはある。

語られることと語られないことをあつかって、このように述べていることが印象深かった。これは第四章より。

過去のひとびとが書き残したことと、書き残さなかったことがある。書き残したつもりで誤っていたことがある。書き残さなかったが、書き残さなかったことでかえって浮かび上がることがある。書き残されたものの誰にも読まれないことがある。誰にも読まれないままで永遠に失われることがある。失われてしまったものは痛ましいが、まもなく失われようとするときに、歴史は語られ始める。

鎌倉殿の13人、ギブアップ!

全48話中44話まで観た。もうすこしでフィナーレなのだけれど、おもしろくなくなってしまったので、来年に持ち越すことはせずにおしまいにすることにした。

源実朝が右大臣に叙されて、鶴岡八幡宮に参詣する。その雪の日の惨劇をいざ迎えようというところまでになる。このあと実朝が殺害され、承久の乱をおさめて完結となるのだろうけれど、あと4話でそれを描き切るのはたぶん不可能だ。ダイジェストのようにあわてた幕引きになるだろう。余韻の予感が持てない。

源頼朝が鎌倉政権をつくりあげて斃れるまでが、圧倒的におもしろかった。佐藤浩市さんの演ずる上総広常が謀殺されるところなど、かなりエモーショナルであるがまっすぐに印象深く記憶させられた。しかし二代将軍以降の鎌倉の内紛は、単に陰惨であるのみならず、動機も結末も浅はかな小競り合いの繰り返しというぐあいで、ほとんどおもしろいとおもわなかった。

おもうに、北条義時叙事詩の主座にふさわしくない。それに尽きる。鎌倉幕府成立から承久の乱までを生きて目撃した数少ないひとりであるわけだが、それはこの男が特別に優れていたことを意味しない。たまたま生き延びる運を持っていたに過ぎない。和田合戦以降の義時はのっぺりとした演技で演じられて、この主人公から魅力を取り除くことが演出の軸になっていたようにさえおもわれる。

英雄的な才覚を無理に引き出そうとせず、凡庸な人格として演出する判断はあってもよい。実際、歴史というものは偉大な才能だけがつくるものでなく、有象無象のうごめきのあとに残るものであるはず。しかし、こと劇作品となると主役に光る美点がなければお話にならない。ぼくはそう感じた。

合議制の幕府運営がはじまってからというもの、ドラマはヒーロー不在におちいって、通俗化する。政治のかけひきは凡庸で、描かれる感情も凡庸である。実朝が天才歌人として頭角をあらわしたことでつかのま息を吹き返したようにもみえたが、最後にはその実朝もメロドラマ的な狼狽に取り憑かれて俗に落ちた。それでもう最後まで観られなくなってしまった。

陰謀が陰謀を呼ぶ暗いドラマと聞いて期待するところもあったが、どうもだんだんに陰謀の推移が自己模倣的になった。脚本に繰り返される愚かさは、政治のばかばかしさを冷笑しているのだとおもえば理解できなくもないけれど、冷笑主義はもとよりぼくの好むところではない。

インコに噛まれた

右の人差し指の第一関節のあたりにガシッとくちばしで食いつかれた。

爪の根元あたり。手先が冷えていたのではじめは傷がついただけにみえたが、やがて出血もした。

あんがい血管が密集しているらしい。このようなところに傷をつくるのはめったにないことで、なかなか止血しないことを新鮮にながめている。すこし時間をおいて、風呂上がりに絆創膏をとりかえようとしたら、あたたまったこともあってかますます血がにじみでていた。

頭だろうと首だろうと主翼のしたのボディだろうと、わりとどこでも撫でさせてくれるくらいにはなついていたはずなのに、この冬の帰省では妙に気を荒ぶらせているようだ。はじめは逃げ隠れしていたものが、やがて敵意と攻撃に転化した。すこし落ち着いたかとおもって誘引されるように指をのばしたところ、目の色を変えてガブリとやられた。

もっとも、いつもともに暮らしている母と妹さえ、それぞれ生傷をもっている様子だったから、なついているかどうかというよりも単に気まぐれの攻撃であるようにもおもう。それにすこし荒々しいくらいのほうが好ましくもおもう。

石黒正数の『外天楼』を読んだ

石黒正数の『外天楼』を読んだ。コミック好きの同僚らがこの作家に言及しているのを聞いて、短編集の装いをしているこれをひとつ読んでみることにしたのだった。

舞台背景の情報を短い挿話に書き込んで、本筋からの逸脱も群像劇にちりばめながら、最後にはひとつの人格の存在理由に急激にせまっていく。巧みなプロットメイカーであると感じた。それを文庫本の頁数におさめる手際もあざやかである。

しかし熱狂して再読する意志ははぐくまれなかった。あまりにウェルメイドすぎて、それがかえってスケールを小さくしているような気がした。生命倫理の主題を、ある科学者の狂気とその犠牲者の葛藤として提出する。それを演出するために技巧的な表現を動員する。すべてがうまくいっているようにみえるのだが、なにかとんでもなく重要なものを捨象してしまっているようにもおもわれる。

たとえば、尊厳について。生命の尊厳を守るための闘いが、やがて別の生命の尊厳を奪うことに帰結すること。それは美しく描かれているが、拙速でないだろうか? 俗情にほだされて、勧善懲悪のクリシェにおちいっていないか?

速度と加速度

速度から変位を求めることと、加速度から速度変化を求めることは相似をなしている。

初期位置  \textbf{r}(0) が与えられていれば、任意の時刻  t での位置は速度  \boldsymbol\nu からこう求まる。

 \displaystyle \textbf{r}(t) = \textbf{r}(0) + \int_{0}^{t} \boldsymbol\nu(t)dt

速度の初期値  \textbf{v}(0) が与えられていれば、任意の時刻  t での速度は加速度  \boldsymbol\alpha からこう求まる。

 \displaystyle \boldsymbol\nu(t) = \boldsymbol\nu(0) + \int_{0}^{t} \boldsymbol\alpha(t)dt

特に  \boldsymbol\alpha が定ベクトルのとき、運動は等加速度運動であるといい、上の式を次のようにかんたんにして使える。

 \displaystyle
\boldsymbol\nu(t) = \boldsymbol\nu(0) + \boldsymbol\alpha t  \\ \displaystyle
\textbf{r}(t) = \textbf{r}(0) + \boldsymbol\nu(0) + \frac{1}{2} \boldsymbol\alpha t^{2}

仕事納め (2022)

きょうで仕事はおわり。ぼんやりしたいちねんだった。

4月に GitHub の求人をたまたまみつけた。「あ、受けたい」とおもった。はじめて書く英文レジュメを Amazon のロンドンオフィスで働く友達に添削してもらった。そのレジュメはそこから回し読みされて、あちらこちらからフィードバックをもらった。まあまあできのよいものを提出したつもりで、なしのつぶてだった。

まあそれはそんなものと割り切れていたからよい。しかしそのあとでどうにもいつもの仕事が灰色にみえはじめてしまって、急激にモチベーションがしぼんだ。いったん辞めてのんびりしようかなと夢想したりした。やけっぱちになっていたつもりはないけど、いろいろうまくいっていなかったんだろうな。

とはいえ辞めるまではいかずに、プロダクト開発から認証基盤開発にチームを移された。おおきなリリースの前のしあげの時期に合流した。いい気分転換にはなった。リリースもうまくいった。お祝いに京都に連れていってもらった。紅葉がきれいだった。

年末になって、半年前にぼくが辞めないように搬送してくれた兄貴分の退職を知った。そのひとがいなくなる前に雑談のセッションをねじこんだ。きれいごとばかりでないのはわかっていたけど、いざ赤裸々な話を聞くともやもやした気分はあった。うまくいっているようにみせかけるのはたいへんなことだとおもった。

もっとも効果的なプログラマのひとりではいられているようだ。それは自信をあたえてくれる。しかしものたりなさもある。たとえばほんらい専門というべきはずの外国語をほとんどつかっていないこと。そこにもどかしい気持ちはある。外国語がどうこうというよりも、より高いレベルで議論のできる相手をもとめているようなところもある。ものたりなさに帰結する。

仕事が人生のすべてでないということを新鮮に再発見したのはすばらしいことだった。気晴らしに映画をみたり小説を読んだりするのがたのしかった。音楽を聴きにいったり舞台を観にいったりもした。それはじゅうぶん幸福である。その満足がもどかしさをほどよく打ち消した。そんな調子のぼんやりしたいちねんだった。