ユユユユユ

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『ホワイト・ノイズ』を観た

ドン・デリーロの『ホワイト・ノイズ』が映画化されたというのでたのしみに観にいった。アップリンク吉祥寺にて。

大量のモチーフがほとんど生のまま動員されて、とっちらかったままに幕引きとなった。というと散漫を否定するものいいのようになるが、そうではない。そのスタイルはパンチドランクになるまで情報を浴びせてくる現実のメタファーになっている。ある問いがあって、思索をめぐらせてその問いに答えることを試みるのではなしに、次から次に問いを投げつけるうちに、3つ前の問いは霧に還っているというような...。スーパーマーケットはそのような消費が抽象化されてあらわれる聖域である。

なにかを選ぶことは、なにかを選ばないことである。潔癖なひとびとは、根拠の信仰にすがる。なんのために? 死を遠ざけるため。この「死」にとりつかれた家族が中心にある。思春期の子どもたちは偏執的な情報狂で、ラジオからもたらされる「最新の症状」をみごとに選択して発現させる。中年の妻は死の恐怖を抑える薬物ダイラーのとりこになる。科学が福音をもたらすと信じるが、その科学がなにものであるのかはわかっていない。自然を美しく説明するはずの科学を、言葉の俗世にひきずりおろしている。そのとき科学が弱まることは、イエス受肉して身を滅ぼすさまと似ている。

言葉、言葉、言葉。この映画のなかで、情報とは言葉である。すべてが言葉であり、言葉によってのみ描写が生じる。妻が不貞を告白(言葉で!)すると、不貞はあったことになる。そうされている。しかしその告白(言葉!)がなかったら? 不貞はなかったことになるのではないか?

言葉で説明されない情感でスクリーンに映るただひとつのものは、恐怖である。恐怖の瞬間は説明されず、ただそこに映る。しかし恐怖の根源を言葉で説明しようとすると、なにかが壊れる。言葉のコミュニケーションは、ありうべくもない。なぜならそれは、そこに介在するものたちが事前に了解した暗黙の基盤のうえにおいてのみ理解されるものであり、そしてその基盤はほとんど無限に再帰するからである。ファインマン博士が「磁石はなぜ反発するか」という問いに意見した映像がこのことを語って雄弁であるから、付録しておこう1

愛もまた言葉にならないものとしてよさそうに映る。しかし愛を交換するシーンでも、どうも言葉の操作が先に立って、言語に回収されないざわめきは映されない。もっともソシュールに言わせれば、そのざわめきも言語によって縁取られていることになるか。そうであるなら、この言語を慣習的言語と言い換えよう。そして詩的言語(あるいはナンセンス)をその対義語として定義しよう。この映画は慣習的言語のくびきから逃れていない。逃れることに失敗したのか、逃れることを拒否しようと試みているのかはわからない。逃れずに埋没していく極限に新たな地平が映ることはありうるだろう。しかし、これがそれであるのかもわからない。支離滅裂で自壊していくような製作は独特で他にないものとみえたが、混沌にみえるものもまた理性の支配を被っていることが見えてしまうので、熱狂はできない。

多くのものを説明するために、多くの情報を動員する必要はない。より少ない定理でより多くを説明しきろうとする蛮勇のほうがぼくの好みだ。