ユユユユユ

webエンジニアです

『サッドヴァケイション』

暗闇のなかに二人組が立っている。粗野な格好をして、並んで遠くを眺めている。なにかを待っている。

二人は無言で無骨な鉄ハシゴを降りる。狭い地下室に男たちがすし詰めに横たわっており、眠っていたのだろう、懐中電灯に照らされて不服そうににらみつける。しかしひとりが立ち上がると、それが波紋のように広がってムクムクと起き上がりはじめる。この間、やはり誰も言葉を発さない。

そんな異様な始まり方をする。その地下室が、北九州に大陸から密入国者たちを乗せてやってくる船に付属していたことは、あとになってわかる。そしてそこでみなしごとなった男の子がこの物語の重要人物であるらしいことが伝えられる。この子を保護した男と、彼と棲む女。その子を狙って男を脅迫する中国人マフィア。そういう群像が、肝心の男のプロファイルを知らせない先から畳み掛けられる。

それが冒頭の手さばきである。いや、正しくはいちばんはじめに舞台背景がキャプションで示されていた。10年前のある暴力団員の自殺、それと時を同じくして失踪した男女。その暴力団員は右腕がなかった。これら思わせぶりな表現によって、いったい自殺者は本当に死んだのか、それとも生きて逃れているのか、この映画は暴力を扱っているのか、それとも自殺か、失踪か、などとあらゆる方向へのあいまいな先入観だけを与えられて、謎めいた空間のなかで話が動きはじめる。

浅野忠信が演ずる、中国人孤児を保護してマフィアに脅迫される男こそが、白石健次、冒頭で失踪が告げられた当人であることがあとになってわかる。彼とともに失踪したユリが、知的な発達の遅れている、しかし純真な女性であって、暴力団との関わりなど露ほども感じさせない人格であることもやがてわかりはじめる。宮崎あおいは、『EUREKA』でのバスジャック被害者の少女の役をそのまま引き継いで、しかし7年の成長を経た18歳の女性として、自立して運送会社で労働をはじめることが描かれる。彼女もまた家出という失踪をおこなっており、友人たちの彼女を捜索を持ちかける雑談が挿入されもする。

かくしてあちらこちらに話の種を振りまきながらも、ひとつひとつの逸話は独立したままで、なかなか交わらない複数の線が走る。白石が間宮運送を訪れるに至って、それらの線が収斂を開始するかと思わせて、そこで彼は母の姿をみる。暴力、自殺、失踪。これらの話題は横に置かれたまま、母と息子の関係が新しい主題として急に浮上する。

かつてみずから夫と息子を捨てて出奔した女が、家族制度に執着をみせるという奇妙な滑稽さ。再会した息子に、母にとっての長男として、実の父ではない男の家を継承することを命じる。しかもそのやりかたは、権威主義によって抑圧的にそれを強いる命令というよりも、搦め手からネバネバと籠絡するしたたかなやりかたである。優しい笑顔を保ちながら、ときに残虐なことを口走って、殴られ突き飛ばされもする。しかし彼女は笑顔を崩さず、男たちには勝手にやらせておけばええんよ、という。言葉の裏には、最後に支配するのは女であるという含意がある。家庭にあって表面的には男性たちに踏みにじられているようにさえみえる女性が、芯から自分を強く信じて疑っていないこと。これはなかなか強力なキャラクターであるが、昭和以前の伝統型家族においてそういう女性のあり方は珍しいものではなかったかもしれないと、自分の生まれた地方のいくつかのヒロイン的女性像を思い描くに想像することはできる。

この映画で彼女のいう家族は、運送会社の社員たちを含むように拡張した概念であるが、そのいっぽうで当主としての社長の役割は長男に継がせるという偏執がある。保守的とみることはたやすいが、しかしそれは王位継承権と同じだけの正当性もある。きらびやかな権力は家の男たちに与えて、われら家の女はそれを操ることで実利を得よう。そういう役割を進んで選んで、たしかに家族-会社という組織の影の権力者として君臨するたくましい女性の姿が表わされている。

などと、母権制の主題が中盤から貫かれることとなる。暴力の影は間接的にしかあらわれない。中国人孤児は拉致されるが、そのことに関する葛藤は薄く弱い。高良健吾の演ずる荒々しい高校生は、もっとも男性的な暴力衝動を濃くもった人格として描かれるが、あっけなく返り討ちにあって安く死ぬ。まるでそんな者ははじめから家族になかったかのように風化する。それもまた、母権の采配にみえる。オダギリジョーは、若くニヒルな男を演じて、一匹狼らしく振る舞うが、最後のシークエンスでは下にみていたはずの宮崎あおいの膝で慰められている。ここにも男性の浅ましさと許す女性という対比がみえる。

息子の母への葛藤と、すべてを許す母。この二者の関係を中心的なモチーフとしながら、彼らの周囲にある群像の個別の葛藤も描いて、ある地方の小市民の生きた物語をみごとに語っている。バラバラになりかねないいくつもの挿話が、針穴に糸を通すように整理され、秩序づけられている。中盤までは白石を主役として語られていたはずが、気づけば母がその座を奪っている。話の運び上、主人公としての白石に感情移入をして、母への反感に同情するようにみていたはずが、フィナーレでは白石さえも舞台から退場して、すべては女たちの物語であったという後味を残して幕をおろす。

家族という特殊と普遍の折り重なる空間を描いて饒舌である。複雑な構成を持っていて、見落としたポイントも多々あることを自覚しながらも、すでに古典と呼ぶにふさわしい貫禄をもった作品とおもう。

右腕のない男というモチーフがなんであったのかは、最後までわからなかった。そういうミステリアスさを残しているから、きっといつかふたたび鑑賞するに違いない。青山真治さんが特異な作家であったということを遅れて理解しはじめている。