ユユユユユ

webエンジニアです

失業給付、おびえないこと、ミロ

ハローワークに三度目の訪問をしました。失業認定を受ける日だったのです。

受給のためにはいくつかの要件のうち少なくともふたつを満たさないといけません。ひとつは、国家試験を受験するということ。先月にデータベーススペシャリスト試験を受けたから、それで満たしていました。もうひとつは、ハローワークで職業相談を受けること。これをきょう満たして申請すればいいはずとみて、訪れました。

職業相談をしました。適応障害の診断を受けて、求職活動の成果は芳しくないこと。診断書は持っていないからそれを証明することはできないこと。きょうは認定日だから来てみたのだけれど、求職の準備ができていないのに訪ねてきてしまったこと。それではたしてよかったのか自信がないこと。前回に訪問してから仕事をした日が何日かあったから、それの申告はしておきたいこと。どれから話してなにをどう完了させればいいのかまったく見失ってしまって、あわあわと話しました。身体は元気なのに立場は失業者であることに引け目があって、うまく話す自信を失ってしまっていたようです。恥じることはないとわかっているのだけれど、ほんとうに恥がなかったら、自分を励ます必要もないわけです。そう考えると、やっぱり恥じる気持ちになって、舌がもつれました。

しかし担当の職員は「そうですか、では休みきったらまたやりなおすということにしましょう」と短くいいました。「きょうはおつかれさまでした」といっておしまいです。ありがたくも不思議なようでもありました。もっと尋問するような手続きが起こるのだとおもって緊張していたけれど、そこまで心配することはありませんでした。

別の窓口で認定を受けて、失業給付がおりました。それだけで暮らせるほどにたっぷりもらえるわけではないし、そもそもこれは生活の計算に入れていなかったお金だけれど、家賃と相殺するくらいの補償がもらえるのはありがたいことです。大事に使おうとおもいます。

失業保険の資格がぼくにあるということを理解していながら、自分がその受給者となることに、なんとなくおびえていました。もらってしまったから怖くなくなるというのは理性的でないような気もしますが、いまやすこし安堵しています。もうすこし支給を渋るような態度を表されるかと想像していました。きょうの訪問にもおびえていました。できれば受給しないで済ませられたほうが楽なんじゃないかとさえおもっていました。しかしおもえば、ぼくはこういう制度に保護されたことが、以前にもいちどありました。

コロナウイルスのはじまりの時期のことです。ぼくはフリーランスの仕事が切れて、二ヶ月ほど収入のない月がありました。世界が揺らいでいることのショックが甚大で、仕事をつなぐことは二の次にしていました。そしてそのようにして、前年比で売上を低下させたぼくに、百万円が給付されたのでした。

もらえるものをもらっておくことは、大事なことなのでしょうね。給付されなくとも暮らす工夫ができなかったとはおもわないものの、「武士は食わねど高楊枝」をひとに強いて支援をおこなわない社会は、よくないもののようにみえます。ぼくはどうも「武士は食わねど高楊枝」という気質の先祖に育てられて、おなじ傾向を持ってしまっていますが、黙って受けさせてもらえる支援があることは、ありがたいなとおもいます。

同時に、たかだかこればかりのことにしてはあまりにも緊張しすぎていた自分を観察しておもうこともあります。自分が弱い立場に立つことに慣れていなくて、過度に防御的になっていたように感じます。失業した自分を恥ずかしく考えて、一日でもはやく就労する意志を全身で表現することができているか? と、ぼく自身が誰よりも先に教育的視線を自分自身に投げていました。恥ずかしくなく生きられることは重要ですが、恥ずかしくないことだけが人生の目的ではないでしょう。

ひとにどう思われるかを自分の意欲よりも上位におく傾向があります。誰かに面と向かってそう批評されてしまったら、図星であります。だから、誰かに言われる前に自分を批評します。失敗を恐れるとき、ぼくは失敗することそのものよりも、失敗した自分への悪評や陰口が流通することを恐れています。そして、ぼくはこの前の仕事で健康を損なうトラブルがあったことを振り返って、トラブルの回避に失敗したことと、それによって悪い印象を残したことを、いまだに気にしています。それを避けるためには健康をいっそう犠牲にする以外に選択肢のない、極限の状況であったと頭は理解しているにもかかわらず、どうして自分は失敗してしまっただろうと自責がよみがえる瞬間があります。でも、ぼくはそれに蓋をします。

ひとに評価されなくてもいいとおもえることは幸いでしょう。去年 bunkamura ミュージアムでみたミロの展示で、神経質な作品を作っていた芸術家がやがて自由さを手に入れてのびのびとした創作環境を手に入れた様子をみたことをおもいだしています。成功したから自由になれたのでしょう、と皮肉にみることはできます。きょうはそれよりも、のびのびと生きるためにこそあなたは制作を続けたのですね、と感じます。

失敗に接近してこそ独創にいたることができるともいえるでしょう。だからといって、努めて失敗しようとすることは倒錯しています。自分らしさを自分で定義して、それを疑わない明るさをもつこと。卑屈にならず、ひとにやさしく、自分にやさしくあること。そうできればいいなとおもいます。