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燐光群の『わが友、第五福竜丸』をみた

燐光群の新作舞台『わが友、第五福竜丸』を鑑賞した。

ある喫茶店の店主が、彼に店を引き継がせた父の悪友らが、夢の島の捨て船から拾ってきた舵輪を店に飾っている。盲目の女性がおとずれて、この舵輪の特別な力に引き寄せられてやってきたと語る。はやぶさ丸の舵輪。第五福竜丸のいわくつきの舵輪。喫茶店はモビー・ディックといい、このさきはもう登場しない。

第五福竜丸展示館で、全長30メートルの船体が展示されている。20メートルの大波を越えて、ビキニ環礁のさらに先まで漁にでかけた木造船。除染および再就航のために交換された部分もおおいにあるが、これは船の肉体そのもの。その船が、こつぜんと消失したと告げて、劇の長い旅ははじまる。

船は盗まれた? しかしおおきな船体を一晩のうちにどうやって展示室から運び出せるだろう。いくら深夜の夢の島に人気がないといっても。それとも、第五福竜丸は、もういちど海に出ていった? みると、はやぶさ丸として換装された部位は展示室に散らばって残されていて、消失したのは被爆した部位だけであるようだ...。

第五福竜丸は、はじめ汚物として帰還した。死の灰にまみれていた。汚染を取り除かれて、はやぶさ丸への生まれ変わりを強いられて、くたくたになって東京湾に打ち捨てられていた。所有権がどこにあるのかもわからなく、海の上のごみとみなされて、夢の島の埋め立て材料にまわされようとしていた。しかしいまにも沈みそうなその船を市民が守った。台風がやってきたら、ロープで陸につなぎとめて、水をバケツでかきだした。そのようにして守られた第五福竜丸が、展示館から消えてしまった。それは記憶から消えていくということを言い換えているようである。

そうして、市民の被爆をめぐって語るおおきい舞台はまわりはじめる。

高知の老いた漁民が、娘をがんで失ったことに打ちのめされて、自分は放射線に毒されているのだと絶望する。彼もまた、ビキニ環礁の核実験にまきこまれていたのだ。ただし、焼津の第五福竜丸ほどに過酷な海には近づかなかったし、焼津の被爆者たちの受けた風評被害を目の当たりにして、恐怖を告白することはできなかった。娘にさえいえず、孫にはなおさら語ることのできない過去。

夢の島の展示館の館員は、第五福竜丸船員の久保山愛吉さんが操作した無線機に刺激され、夜な夜なアマチュア無線に興じるようになる。地球の裏側から届く信号を受け取るのは、意味を判読できなくてもおもしろい。ローマ字に変換した日本語をモールス信号で送り出していると、あるときアメリカから同じように、日本語のメッセージを受信した。

ネバダ州の核実験。32万本の乳歯の検査をして、健康被害を証明した母親の団体。いっぽうで、キノコ雲をながめてプールサイドでカクテルを傾ける客をあつめる観光産業。

ビキニ環礁の住民も被爆、島は居住不能区域となる。除染によって安全はもたらされたと宣言するアメリカ政府にしたがって住民は帰還するも、帰還した矢先から死産流産があいつぐ。クラゲやタコのように形をとっていない赤ちゃんの死体...。ふたたび居住不能が宣言される。やがて補償金との交換で島に戻るよう彼らは持ちかけられるが、もはや島で自給自足の生活をすることはできない。仕事はない。ない仕事をわけあう。仕事のない時間は、ただぼんやりと話をして時間が過ぎていく。生きる甲斐はきわめてちいさい...島民は政治にもてあそばれるようだ。

ビキニ住民を強制移住させる国家のやりくちは、福島の原子力事故に話題を接続する。汚染土を福島から日本各地に拡散させることに義憤をおぼえる市民がかたや描かれ、他方には新宿区の自宅の庭にみずからすすんで汚染土を受け入れる市民が描かれる。「では福島にすべて押し付けるんですか?」と後者の登場人物はいう、「福島の電力は好き放題つかっておいて、汚れ物は東京に持ち込むなというのは、それこそわがままに聞こえますけれども...。」

そうはいいながらも、舞台は微量の放射性物質がどれだけ安全であるか明白でないことを、第五福竜丸と船員たちの被爆に繰り返し立ち返りながら主張する。70年前に俊鶻丸という調査船がビキニ環礁で広い海洋汚染を計測した。マーシャル諸島の海水が、核実験時の放射性物質を拡散させずに、濃度をたもったまま、太平洋を循環していることも判明した。海のなかには海流のつくる壁があって、その壁をまたいで水がまざりあうことはないと語られる。マーシャル諸島の水がほとんど薄まらずに東アジアに運ばれるように、福島の水は薄まらずに世界の海にはこばれて、それが未来の知識においてどれだけ合理的な決断であったかと知ることは、われわれにはできない。

終盤、はやぶさ丸の舵輪が発見されて舞台がはじまったことと対応するように、こんどは第五福竜丸が換装される前の、すなわち被爆時の航海をみちびいた舵輪が見出される。そしてただちに、被爆当時の乗組員たちの群像劇が挿入される。

未明の海で、あるものは天体観測を、あるものは料理当番を、あるものは寝そべって窓からはいるあたたかい南の風をたのしんでいる。西の空から光球がのぼる。日の出か? いやそんなはずはあるまい。光は3分もつづいて、さらに数分の間をあけて長い衝撃波が襲う。光と衝撃の到着時間の差から、200km弱先のビキニ環礁で "ピカ" の実験をしたに違いないと船員たちはかすかに知る。ただちに逃げなければ。しかし、失敗続きの遠洋漁で、最後にやってきた豊かなビキニの漁場で、最後の延縄さえ投げ出して帰る決断は、目に見えない放射能よりも恐怖すべきものだった。黒く低いきのこ雲の影が空を覆って、冷たくも熱くもないひらひらしたカスが降り始める。死の灰をおおいに浴びた労働のあとで、船員たちは急性障害を引き起こしていた。それでいて、母港焼津までの二週間の船路を前に、異常を知らせて救援を求めることはしなかった。周囲をアメリカ領に囲まれた漁場で悲鳴をあげるなり、秘密の爆弾を見てしまった取るに足らない漁民の命は、あっさりと滅ぼされるだろうとはっきり理解していた。船員のうちいくらかは、十年前に同じ海でアメリカと戦っていた。

帰っては、放射線障害との戦いがある。賠償を求める戦いがある。被爆していない人間がもたらす差別との戦いがある。第五福竜丸船員だけを救済するように補償金が支払われた。補償とは、悪を認めての賠償ではなく、手打ちをもたらすための、いうなれば口止め料。他方で、同じ海に漁に出ていたが同じほどひどく灰を浴びなかった漁船の働き手たちは、補償の外におかれて葛藤する。はたして自分は被爆していないのだろうか? 子や孫に障害は遺伝していないだろうか? 補償を求めて訴えることは、被爆者の烙印をみずから押して、苛烈な差別の前線にみずから乗り込む徒労とならないだろうか?

広島と長崎の原爆被害は知られるようになりはじめていたが、放射能という言葉はなお自然科学者を越えて広く観念が理解されるにはいたっていなかった。

このような群像を描いて、燐光群が問いかける悩みは果てしない。国を発展させるために働くプライドの高いひとたちがいて、誰彼にああしろ、こうしろといって、そこからは悪いことのみが生まれる。正義のために働く無垢のひとたちにのみ、悪いことはふりかかる。しかし彼らはそれを望んでいるようでもある。それが正義であるならば。

政治的主張は断固としている。それがただひとりの主張ではなくて、両手で数えられない人数の役者が熱気をともなわせて、きっと演じる自分自身が納得するように、おおきな声と身振りではつらつと演じて嘘のないメッセージを語っているところにすごみがある。舞台はこの世界がどれだけ悲劇に満ちているかを厳しく語って、ぼくはひとりの悲しい観客としてそれに心を痛める以外になにができよう、と苦しくおもいもするが、きっと最後にはうまくいくだろうという楽観もまたたずさえて劇場をあとにする。それはまるで神の正義への信仰によって苦難の乗り越えを図るようでもある。