ユユユユユ

webエンジニアです

坂口恭平の『よみぐすり』

ツイッターで発された「いい言葉」の抜粋を相田みつをの名言集よろしくパッケージしたような本、という印象が最初にあった。元気の出ることは書いてありそうだけど、1ページに140文字くらいという濃度の本で、しかも同じものをネットで無料で読めるんでしょう。であればあえて買って読むまでも理由があるのかねえ、と斜に構えた態度がまずあった。

しかし、立ち読みするだけにとどめることなく、購入していた。それは、紙の本というのはもっと重々しいものであるべきとか、インターネットで読めるものはインターネットで読むべきというような、ぼくのなかにある面白みのない先入観をこそ対象にして、その不自由さを解きほぐすためのヒントがここに含まれているようにおもったためであった。

誰に読まれたいというものもなく、素晴らしいものを書かなければならないという自意識もなく、作品によって評価されたいという虚栄もなく、ただ書きたいから書いて、それが健康維持に役立っているということを言っている。ぼくもおおむね近い気持ちで、こうしてインターネットに適当な文章を書いているわけだけれど、それでもときおり「きちんとしたものを書かなければ」とか「バカと思われないように書かなければ」という制約を自分に課してしまうときがある。そしてそう感じるときのぼくの心の動きは十中八九、「才能がないとは思われたくない」という不安に根ざしたものである。なんとなく好きだから書いているだけだったはずが、これで評価されたいと奇妙に色めきはじめて、自尊心に振り回されているのである。

好きだからやる。楽しい。それ以上のものを求めてしまおうとする貪欲さこそバカバカしい。自分のもちものにいくばくかの価値があるかもしれないと過信しているわけで、滑稽極まりない。自尊心、プライド、責任感。これらは少なければ少ないほうが気が楽になるのはたしかだ。

新刊らしく平積みになっていたところを手にとった。帯にはこうある。「「死にたい」に代わる言葉が必要」と。「退屈だ」「つまらない」と素直に言い表せない若いひとが、おおざっぱに「死にたい」とのたまう。そのようにして使役されがちな言葉であると著者はいう。「楽しくないこと」が「死ぬこと」に直結してしまっている。ぼくは滅多なことでは「死にたい」とはいわないけれど、「つまんねー」とは中学のころから一貫して言い続けてきたような気がする。つまんねーからこそ楽しい工夫をしてそれなりにいい感じにやってきたはずが、最近ちょっと楽しいことも減ってきたということに戸惑っている様子がある。それはこのポストに先立つ投稿をふたつばかり読み返せばわかることでもある。

パンデミックのせいで退屈というのはあるかもしれない。あるいは年齢のせいかもしれない。しかしいずれにしても、退屈なことを「仕方ない」と消極的に受け入れてしまっている。退屈を我慢するのが大人である、みたいな奇妙なテーゼを内に持って、我慢することを覚えてしまっている。そんな話を認めたいはずもないのに。

面白い友達を作れなくなってきたというのは、ぼく自身がつまらない人間に成り果てているからであろう。つまらないことを認めて黙っているのだから、つまらないのは当たり前である。ひどい話だけれど、そうなんだろうとおもう。

自分に対する禁止的な命令。たとえば、飲酒する暇があったら積分の練習をせよ、と命じたり、ビデオゲームをする暇があったら論文を読め、と命じたりする。それは自分の脳味噌の出来栄えを過信して、厳しく調練しなければお前は与えられた頭脳を台無しにするぞ、ということを言おうとしている。それらは「自分はひとかどの人物であるはずだ」という誤った自尊心に裏付けられていて、それがこじれた機会損失の意識を生じさせている。それを捨ててしまえば日常はより軽やかになる。

例えば朝までひっきりなしにワインをあおって週末を台無しにする。あるいは朝までビデオゲームに興じて、昼間の集中力を大きく傷つける。若いうちは特に悪びれもせずに繰り返していたこういうことを、いつしか愚かとみなす姿勢がぼくのなかに生じている。豊かな人生とは禁欲によって叶えられるものである、という誤謬はどこからやってきたのだろう。大人たちがそのように生活している様子をみて、それが正しいと誤って学習してしまったのか。

「これをやらなければいけない」という動機によって生きるのではなく、「これをやると楽しい」という動機によって生きる。そうやって素直に時間を過ごすほうがよっぽど豊かであるはず。それをまっとうすることができれば、退屈だとはもはや言うことはできないはず。