ユユユユユ

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小野絵里華『エリカについて』

新宿紀伊國屋書店をふらっとおとずれたら、一階と二階のフロアが大きく改装されて公開されていた。そういえばしばらくのあいだ二階の文芸コーナーがアクセス不能になっていて、眺めたい棚がどこにいってしまったのかわからなくなっていた。昔ほどにしょっちゅうおとずれなくなっていたので、よるたびに驚いて、驚いたことを忘れることを繰り返していた。

大崎清夏さんの詩集をアマゾンで購入して読んだ。アンソロジーでない、単行本の詩集を持つのははじめてだった。で、他にもいろんな詩集をみてみたいなあとおもって、現代詩のコーナーにいってみた。そこで平積みされていたのが『エリカについて』。有名詩人の推薦文を帯にまとっていて、売出し中のようすだった。エゴを全面的に押し出している書名にフックされた。近傍のどの詩集よりも目立っていたとおもう。ぱらりと立ち読みをして、ああこれはちゃんと読みたいとおもって、読み比べて選ぶということもせずにセルフレジに運んだ。

英詩は韻律にもとづいて改行する伝統があることをわかっているから、そこに近づいたり離れたりする運動として自然に改行を受け入れて読めるのだけれど、日本語現代詩の改行は韻律から離れてあまりに恣意がすぎるような気がして、浮足立ってしまうから長く読み継いでいけない。そこが自分の日本語現代詩への苦手意識であり、没入を拒む障害点だった。

ここでは改行をめったに使わずにガシガシと言葉をならべていくスタイルの作品が少なくない。それはいっけんして散文調にみえるが、イメージを飛躍させる余白がことばの連続面におおくとられているので、読み味としては正しく「改行のない詩」であるとかんじる。改行がないところに改行を読むことができる。それを明示しなくても、言葉に内在する質があらかじめ余白を組み込んでいることがわかる。

かといっていっさい改行を否定するという闘争に踏み出しているわけではない。散文調のなかでも改行はおのずからあるし、句読点で切れることもある。改行による切れに注意してしまうのはこちらの執着にすぎない。実際のところ、句点をつかわずに短く音を切って成立させている「現代の恋愛」「初夏の記憶」のような作品もある。「エリカについて」もそう。そしてそれらはいちいち素晴らしい。おお!

表題作「エリカについて」を読むと、それはあるいっときの意識の流れをすくい取ったような、ひとつの連なった語りにみえるのだけれど、よく読むとナイーブに書かれたものでは決してないようにみえる。注意深く慎重に構築されている。ナイーブにみえるのであればそうみせようと意図して作り込んでいるからだ。そんな気がする。一瞬のおもいつきとして叙述していくには、長さを増しても失われない持続する密度がある。名前を間違えられてざわめくことと、自分自身が名前を突き放して惨めになることの反復、それを支えるためにいくつかの魅力的なエピソードが物語仕立てに織り込まれている。それでいて、ここぞというところではこういう韻のよく整えられたスタンザも用意して、自由な口語調のなかにリズムの格式をつくりだしている。

おお、エリカは拡散していく
唯名論はいかがわしいのに
このエリカのよそよそしさ
ユリイカ

それからこうやって、名前の文字列を擬人化して、エゴと名前を併置して、どちらに言わせるともなく「バカ!」と突き放して切断するやりかた。

ってこのさい、私は絵里華と一緒に、
おお、絵里華よ見捨ててゴメンといいながら、
絵里華と一緒に泣いている
バカ!

「絵里華と一緒に」と繰り返して冗長気味なトーンを生んだあと、ただちに「バカ!」で停止する爽やかさ。欺瞞の叙情におちいりかけた自我をすこしだけかいまみせておいて、沈まぬさきから急いで転調する華々しさ。

どうやってこういう書き方ができるのか、書けたとして、どうやって推敲の目で切らずに残すことができるのか。やっぱり一気呵成に書かれているような気もするし、でもよく構成の行き届いた詩である気もする。説明のおよばないところに魅力をおよばされているのだとおもう。