ユユユユユ

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国立近代美術館コレクション展

竹橋の国立近代美術館のコレクション展を観にいった。

彫刻、掛軸、屏風絵、版画、水墨画といった、ぼくがこれまで親しんでこなかったカテゴリから、近代日本の芸術家たちの試みの粋がいちどうに集められて、ぼくは刺激的な時間を過ごした。

ピエール・ボナールとかパウル・クレーとかフランシス・ベーコンの作品もあって、しかもほとんど観客のいない空間で鑑賞できるのはぜいたくなことであるけれども、ドメスティックな作家の仕事をおおく眺められたことはそれよりもうれしい。オルハン・パムクの小説をこのごろ読んでいることが、西洋文化の移入をどのように叶えるかという問題意識を前景において眺めるモードにさせていたかとおもう。

長く関心を奪われた作家と作品の近くでとったメモをこれより下に残しておく。

米原雲海「清宵

まるっこい肉体、筋肉の未発達、厚ぼったいまぶた、細い目。乳臭さの残る子供のイメージはたしかにそこにありながら、80cmばかりのちいさな人間の立ち上がる姿には、芸術のひらめきがおとずれる瞬間のよろこびが活写されている。美をかこむよろこびに、大人と子どもの区別はたしかに意味をなさない。

豊かな衣装をまりのようにからだのまわりに膨らませているから、ペンを持った右手を胸の前に差し上げると、風の重さを感じさせる。垂らした左手にはページの束を握っている。これも風に乱れそうであるが、ばたばたと吹くとあまった袖が風を包んで暴れるだろうから、穏やかな風しか吹かないようだ。静かな気候である。

視線の一途さ。月の美に囚われている目というよりも、美の底にある宇宙のはかりしれなさに忘我する目。しかし忘我から還って、それを芸術に転写する目でもある。若い想像力に芸術の真髄をほのめかすのは、ロマン主義をふまえているようにおもわれる。しかしメッセージ性は強くなく、ただそこに美しい彫刻が立っているというつつましさも好ましい。

平櫛田中永寿清頌

痩せ型で長身の老いた男性の彫刻である。茶人帽と地面すれすれの長羽織で全身を黒で包んで、死装束のようにみえる。肌は白く、髪も白い。杖をついて体重をささえている。頬の肉はたるみはじめているが、化粧によって押し戻してもいるようだ。肌の白さと口紅をさしたように鮮やかな唇の対比が、やはり死をおもわせる。葬儀の夜に幻となってあらわれた死者のような姿だ。口角をあげて、目こそ笑わないが、なにかを試すような表情で、遠くをみつめて、物言わない。

着色がない彫刻であれば、茶人の棟梁めいた威厳があったかもしれない。しかし色がそこに乗ると、彫刻は死の異様な生々しさも帯びるようになるいっぽうで、どことなく世俗的な凡庸さもきざす。存在のあいまいさを突きつけて、しかも彫刻だからこの老人は長く朽ちない。すぐれた死の具体化である。

原田直次郎「騎龍観音

コブラのように上体を立ち上げた深緑の龍のうろこまみれの背中に、薄い白い沙羅を何枚かまとわせた、くせ毛の黒髪の観音が裸足で直立している。右手は自然に垂らして青い草をもち、左手には金の燭台を持って胸のまえに捧げていて、そこにろうそくは立っていない。

前景にある龍の身よりも太い龍の胴体の影が、画面中央を奥に伸びているのはなんだろう。左下に鉤爪の三本指が煙の影に見えているが、これも前景の龍からは離れているようにみえる。観音と龍に秩序はあるが、そのほかの構成要素は暴れて散らばっているようにもみえる。西洋の技術のインテグリティを志す姿勢がみえるいっぽうで、統一感があるのかどうかはよくわからない。

龍の表情は、おそろしさよりも純朴さに傾いている。伝説の龍は、犬や鶏に似た顔をしている。それが画面をユーモラスにしている。

パウル・クレー黄色の中の思考

縦長の画面に、濃淡の黄色が塗られている。そのうえに濃淡のグレーが線をつくっている。

半直線が過半数をしめる。曲線はすくないが、紡錘形がふたつ並んで目のような形象をなすところが存在感をもっている。

ランダムにみえるが、無秩序とまではいかない。秩序のあたえかたにスタイルがある。完成していないようで完成していて、不完全にみえるムラや実験の跡は、積極的な表現というよりも消極的な傷のようであって、それが芸術をシミュレーション不能にしている。

菊池契月「供燈

若くして晩年を迎えた平重盛は京都東山の精舎で念仏に明け暮れた。48の柱に48の灯籠がつらなって煌々と輝く様子は極楽のようだった。平家物語はそう伝える。

女官の四人組が、灯籠に火をいれる。ひとりが前に立ち、残りはうしろに控える。明かりを入れる役は、左手に平皿を捧げ持ち、右手につまんだ細い棒で火を灯籠に運ぶ。灯籠は目線の高さにあるから、腕をわずかにあげれば手は届いて、袖口から肌がすべりでて惨めな思いをすることはない。女官の表情には慎重な仕事に務める者の緊張感がにじんでいる。燈を供えることに荘厳な儀礼を見出して、女官はこの仕事に満足するに違いない。

日和崎尊夫の木口木版画群

木口木版画の豊かなカタログを展示している。いずれもサイズにおいてはちいさいが、繊細さのなかにスケールのおおきさがある。細密画師と呼ぶにふさわしい。黒い画面に白い点描で図像を浮かび上がらせる仕事は、ただならない集中力を感じさせる。

晩年の作品は、すこしおおきな木口にくっきりとした彫りをくわえてきらびやかにみえる。ひとつの画面のなかに繰り返しと展開が並立して飽きさせることがない。木の素材の生々しさを残していることもいい。身近な素材から宇宙を取り出す類まれなる芸術家。

奥村土牛胡瓜畑

キャプションの文章がよかった。

縄で組まれた竹の支柱に蔓をからませ、勢いよく生い茂る胡瓜の葉。細かな産毛や柔らかな花に、しっとりと澄んだ初夏の空気が漂います。