ユユユユユ

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マティス展

東京都美術館マティス展を観に行った。金曜日の夕方に知人らと集まって訪れた。弱くない雨が降っていた。

長命の作家の人生を見通そうとする展示は、およそ40歳にいたるまでの期間を修行時代と位置づけるようにしている。シニャックのように点描を試みたり、フォーヴィスムに手を染めたりして、これというスタイルを模索するようにみえる。

なにも知らずに展示を観る者にとって、これは苦闘の時代とみえるのだが、それが巨匠の転換点として語られる様子であることに当惑した。名声の定まったあとで顧みればそのように解説することもできるのであろうが、それは未来を見通せない不安のなかにある画家の苦しさをうまくなぞってはいないようにおもった。

小さからざる居心地の悪さがあった。技術があって巧みであると感心する部分はあるが、技術を超えて信念を揺さぶるオーラまではここに見いだせない。それが名作としてお仕着せがましく提示されるのは、気分のいいものではない。絵をみておもしろいとおもうことができない。そんな気分でいることがどうしようもなく情けない。そういう切ない情をもたされた。

中盤あたりから、サラリと書いた小品やデッサンの類の展示が増えるにしたがって、なんとか作品をみる楽しさを回復することができた。作り込まれた作品はいちいち気に触る気がした。力を抜いて楽に制作されたものこそ美しいとおもった。

入念に計画して、何度も描き直されたものほどおもしろいとおもえないこと。準備を整えることのどうしようもない徒労感。そんなものを繰り返しリマインドされるようにすら感じて、いったいどうしてこんな見方しかぼくはできないのだろうという悲しさがあった。切り絵でもしていれば楽しいのに、どうしてプロポーションをよく測る必要があるだろう。

大きく統一感のある作品をつくることはそれ自体がすばらしいことであるはずと頭ではわかっているはずなのに、それが無為におもわれてならない。絵をみていてさえそんな徒労感を持つことは、ぼく自身がひどい無関心を内面化していることのあらわれであるか。それがどうしようもなくつらいと感じた。

この二ヶ月ほど、生活のなかに暗い不信がつねにあったようだ。そのことが人生のたのしみのおおくを無効にした。映画を観ること、音楽を聴くことが、ほとんどできなかった。絵をみることも同様であったようだ。

そういうことがあって、緻密な構成をもった油彩よりも、1日でできたような即興的な切り絵の作品とか、木炭でさらりと描いたデッサンのほうに関心があった。展覧会の全体を味わい尽くせたとは到底おもえないが、すこしであっても関心をもてる箇所があったことには安堵する。