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東京都美術館のエゴン・シーレ展

東京都美術館エゴン・シーレ展をおとずれた。

クリムト、コロマン・モーザー、リヒャルト・ゲルストル、オスカー・ココシュカというぐあいに分離派の面々の作品をあつめて、シーレ展と呼ぶには誇大広告に感じた。冒頭に展示されていたクリムトのふたつの小さな肖像画がたいへん愛らしく、最後までそれを心に残しながら残りをするという、いくらか不幸な経験をした。

シーレの作品を描写するやりかたに、いくらかアンフェアネスを感じてしまいもした。作品の特質を語るというよりも、ふたしかな価値をあいまいな観念に頼って解説を加えているようだった。スタイルはどうであるのか? 技術はどうであるのか? それらをさしおいて、伝記にもとづいてロマン主義的な意味づけをあたえている印象があって、ものたりなくおもった。

自我の分裂という表現をおおく使いすぎていまいか。しかし自我とはなにを指して、その分裂とはなんの状態をいっているだろう。クリムトの自我は統合されていて、シーレは分裂していたとでもいいたげなのだろうか。あいまいな言葉でだけ語られて、出展作家のうちでもっとも粗末にあつかわれているのがシーレであったように感じた。

スペイン風邪でわかくして死ぬまでのあるときに不安の衝動がおとずれて、しかし晩年にはいくらか心の平安を取り戻したようにはみえた。安定期の堂々とした作品には魅力があった。一般的には不安のさなかの、傷つきやすく攻撃誘発性のある画風のほうに人気のあるようだ。ミロ展でみた、不安を通り抜けて自由な呼吸を取り戻した芸術家の姿をおもいかえして、死の危機をとおりぬけて円熟をみにつけたシーレの作品をみてみたいとおもった。若い天才は、どのようにして老いるか。

同伴した友人が、彼の大学のときに講義をひとつとったという先生をみつけて、元気に話しかけていた。ぼくはまったく知らない関係であったが、最後にはふたりして先生による観照の様子をうかがった。ほおずきの肖像画で、背後にあるようにみえる果実がまなこに映っていること。被画体の主体とキャンバスの前に立つ主体の緊張関係が歪んだ空間のなかに立ち上がることなど。友人と先生が奇妙に意気投合して、こんどはマティスをみにいきましょうなどと話しているのを聞いていた。ずいぶん仲がいいんだなあなどとみていたが、すべてが終わったあとになって、ふたりで出かけるのは気まずいから助けてくれ、などといってよこすのがおかしかった。

議論をしながら鑑賞していて、話し声をたしなめられることが二度あった。いちどは館内の職員に、もういちどはなんと一般の老人に世話をされた。これは妙なことだとおもった。議論のなにがいけないというのか? 作品を前にして沈黙して、いったいどうして芸術を知ることができるだろう? 悪い体験であった。美術館はしおらしく散歩するための場所ではない。

その不満を反映してかせずにか、展覧会の全体は冗長に感じた。セクションを細かく割りまくったうえ、なんどもエスカレーターをのぼりおりさせるのは、疲れさせる。東京都美術館はいつも最後に疲れてしりすぼみにみえるということを話した。