ユユユユユ

webエンジニアです

MET ライブビューイング『ローエングリン』

新宿ピカデリーメトロポリタン歌劇場で録画された『ローエングリン』のビューイングにおとずれた。

演出はフランソワ・ジラール。この演目を観るのははじめてであったけれど、現代的な味付けをしていることははっきりとわかった。舞台は岩で屋根されていて、そこにあいた大きな穴には宇宙がのぞいている。満ち欠けする月がめぐっているのがみえる。舞台の世界を内として、外の世界は宇宙につながっていて、ローエングリンが外側からやってくることも、異世界からの来訪者として意味づけされている。登場人物たちがみな意匠の凝った衣装を身につけているときに、ローエングリンだけはワイシャツにスラックス姿であらわれるのも、彼の異質ぶりを目立たせている。

名を明かさないローエングリンは、決して素性を尋ねてはならないという誓いのもとにエルザと愛を結ぶ。エルザもまた、それを進んで守ろうと誓い幸せを享受していたはずなのだが、物語が進むにつれて彼女の心に迷いがしのびこみ、その誓いはエルザによってついに破棄される。彼女は愚かであるというよりも、恋人との関係を一歩先に進めようとする善意によってみずからを滅ぼしてしまうというところが、悲劇的である。それと同時に、もっとも親しいものにも決して話せないことがあるということは、ロマンチックでありながら現代的な問題提起でもある。愛する者同士にとって信頼とはなにかを雄弁に語って優れている。

歌手たちは、みな優れている。録音で聴いているわけだから、生のパフォーマンスとして比較することはできないけれど、ローエングリン、エルザ、オルトルート、ハインリヒ王はみな力強く明瞭な声をもっていて、メトロポリタン歌劇場のレベルの高さが伺われる。とりわけオルトルートは、関わる者みなを破滅に向かわせる悪女の演技も板についていた。指先と腕をあちこちに捻じ曲げながらあやしく動かして舞台を動く姿はカラスのようで、赤い衣装と赤い照明によるリズム感もともなって、おどろおどろしさを肉体に込めて演技していた。クリスティーン・ガーキーさんというこのソプラノ歌手は、メトロポリタン歌劇場では『ニーベルングの指環』でブリュンヒルデを演じたこともあるし、また来月には来日して東京交響楽団シュトラウスの『エレクトラ』を演奏会形式で上演するらしい。サントリーホールのチケットはもう完売になってしまっていたが...。

指揮はヤニック・ネゼ=セガン。よそよそしいスーツではなくフリースっぽいチャック式のジャケットを着て登場して、ステージにあがった姿は天真爛漫といった具合であった。幕間の休憩時間には、ピアノの前に座る彼が、ワーグナーの全作品中での本作品の特質をみずから語る映像が流れた。いわく、ローエングリンロマン主義の主題からライトモチーフによる作曲へのワーグナーが移行する転機にあたって、象徴的なメロディの代わりにハーモニーによって登場人物を特徴づけているという。例えば、ローエングリンの歌には力強いハ長調が割り当てられていること。エルザの歌の持つ調性は、ローエングリンの調とは馴染んでおらず、それがふたりの運命が交わらないことを音楽的に示唆していること。オルトルートたち悪役の調は、エルザの調とは異名同音の関係になっていて、善と悪の意志が紙一重であることを象徴していること。そういうレッスンをピアノで弾き語っておもしろかった。

10時に開演、15時に終演のプログラムだった。幕間休憩の時間には、ネゼ=セガンによる解題のほかにもバックステージでの出演者へのライブインタビューや、歌劇場の次回上演作の稽古場からの見どころ紹介が届けられて、盛りだくさんだった。ヴェルディファルスタッフ』にシュトラウスの『薔薇の騎士』とブランチャードの『チャンピオン』から、それぞれ出演者たちがカメラに向かって作品の魅力を語っていた。とくに『チャンピオン』から、アフリカ系の男性歌手たちによる英語の二重奏は、オペラ歌手によるブルースという聴いたことのない快楽が聞こえてたいへん興味深かった。

『フォースの覚醒』

スター・ウォーズの第七作をみた。

ジェダイの帰還』の後日譚を描いて、滅んだはずの帝国と反乱軍(反乱とはなにか)の抗争が続いているということ。「前より強力なデス・スター」という三番煎じのアイデア。老人たちのいくぶん辛気臭いダイアローグ。そういうものを取り揃えて、アナクロニズムにはまるポイントはいくつもあった。そういう意地悪な目で観る客にとっても、まっとうに楽しい体験を与える作品として成り立っていた。

おもうにカイロ・レンの存在感がそれを支えている。エネルギー武器の攻撃を停止させるほどのしたたかなフォースの持ち主としてまずは登場する。あるいはヨーダよりもフォースに恵まれているのではないかと戦慄さえもするシークエンスである。ところがのちには、集中底知れなさを将校からの報告に激怒して、感情のままに戦艦の機材をライトセイバーで破壊する様子に、どこか子供っぽいところを感じさせる悪役としても映し出される。やがて BB-8 の代わりにレイを拘束するも彼女のフォースによって洗脳をはばまれ、最高指導者にそのミスの挽回を約束したところで、いっそう悪いことにレイに逃亡されるところもよい。激怒して大暴れするレンは、やっぱり子供のようで滑稽にみえるのだが、それが悪役の姿に泥を塗っているというよりも、むしろ役柄に魅力を注ぎ込んでいる。みずからを鼓舞するようにして胸をたたきながらレイとの戦闘に臨むところも、戦闘経験の浅い彼女に返り討ちにされてかろうじて一命をとりとめるところも、画面にうつるすべての場面で印象に残る演技をしていた。

カイロ・レンという豊かな実りを除くと、やっぱり最初の三部作を変奏しているだけという印象はあった。カイロ・レンとソロの対話と結末は、ダース・ベイダーとオビ=ワンの関係を再現しているようだったし、 BB-8 は R2 の生み直しという様子だったし、デス・スターの壊しかたもいつものとおりという感じだった。

とはいえ、強くなって再々登場したデス・スターにはいいところもあった。いちじるしいエネルギーでいちどに星系を一網打尽にする攻撃の描写はあまりにも現実離れしていて興ざめになりかけたが、後半になってそのエネルギーは太陽をまるごと飲み込むことによって調達しているという馬鹿げたアイデアが提示されるにつけて、奇想天外譚として素直にたのしみはじめることができるようになったきがした。

ハン・ソロがにわかにカイロ・レンに丸腰で歩み寄っていって説教臭い話をするのは肩透かしの感があった。もっとも、老いた男性は得てして身の程を図り違えてそういう蛮行に臨むこともあるのだろうなとだけおもう。まだそこまで老いてはいないから他山の石にもしようはないが。

『ゴールデン・エイティーズ』

ヒューマントラストシネマ渋谷でやっていた、シャンタル・アケルマン映画祭に行って、 1986年のミュージカル映画を観た。

カラフルで実用的な衣装を着た若い(白人の)女性たちが、美容師の仕事道具をぞんぶんに使いながら歌いまくる予告編を観た。底抜けに楽しそうな様子と、すこしポップなパンク曲の響きが耳に強く残って、よく知らない監督ながら劇場に観にいくことにしたのだった。

そのように期待していながら、あまり前向きな感想を持つことはできなかった。嫌悪をもよおしたわけでもないのだけれど...。浅はかな行動とゴシップの繰り返しは、それを奨励する若者文化を揶揄しているともとれる...かもしれないが、実のところは特段に風刺が効いているともおもえず、ただ中身のない軽い意味だけが通り過ぎていくような映画だった。

たくさんの女性たちをフィーチャーして、いくつかの男性像の小物ぶりを示すやりかたがみえる。衣装もいい。個性にも豊かである。作るぶんには楽しい映画だったことは強く想像できるのだが、観るほうには同じだけの熱量は共有できなかったということだろうか。なんとなく楽しいというだけの映画は優れて存在価値のあるものだけれど、いまのぼくはそういうスタイルを求めていなかったという不調和があったのかもしれない。

予告編で流れていた特大のポップスを除いて、印象に残る歌がなかったこと。主人公格のリリの顔がいまいち印象に残らないこと。もっとも印象に残ったのが、ギャングのジャンという中年男のまずそうなマシュマロみたいな顔であったこと。そういう小さな打ち損じ感がかさなって、いい後味を残せなかった。エンドロールでテーマソングの弦楽器アレンジが流れるときに、あまりにも録音の質が低すぎて劇場のスピーカーをキーキー言わせていたこともまずかった。

東京・春・音楽祭「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

東京・春・音楽祭の目玉公演のひとつとして、ワーグナーの演奏会形式の上演をみてきた。指揮はマレク・ヤノフスキ。

ニュルンベルクの乙女エファと、前日に街をおとずれた騎士との恋の話である。歌合戦の勝者が乙女を妻にするというルールのもとで、はじめは不慣れな歌をしかし自由に歌ってマイスタージンガーたち、とりわけ記録係のベックメッサーに騎士は落第を告げられる。

と、第一幕でここまでを観て、騎士こそが主人公に違いないとおもっていたところ、第二幕から先で様子が変わり始める。第一幕で騎士を擁護したザックスが劇の中心を引き締めるようになり、つまらないマニュアル人間のベックメッサーが悪役というより道化役となる。

演奏会形式で演出はともなわないというときに、これらふたりの歌手は好対照なやりかたでそれぞれの人格をよく表したパフォーマンスをしていた。ザックス役のエギルス・シリンスさんは、白い短髪に精悍な顔立ちをして、譜面台に分厚い楽譜集をひらいて、黒縁メガネから見下ろすようなまっすぐな存在感で歌った。

ベックメッサーアドリアン・エレートさんは、譜面台の前には立たずに眉と目の細かなコントロール、指先の動き、あわてるようすでステージを短く左右に行き来するやりかたで、レパートリーの役に生命を与えて歌った。客席に笑い声がもれたのは一度ではなかったし、カーテンコールでも万雷の拍手が投げられた。三枚目としての存在感はいちじるしく強く、主役を食うほどの印象を残した。

最終盤に、情熱的な詩と旋律をバールの形式でまとめあげた騎士がマイスタージンガーの栄誉を手にして、いよいよ終幕とみえたところ、もうひとひねるがおこった。称号はくだらないとマイスターの位を固辞するのである。するとザックスが長い演説をはじめる。これがドイツ固有の芸術を擁護するロマン主義イデオロギーの発露で、なかには外国人排斥の主張が込められていることにぎょっとする。ユダヤ人のことをいっていることが透けてみえるようであるからだ。とはいえ、いくぶん蛇足気味の幕切れであっても、それを恣意的に省略する構成でなかったことがよかった。

『シスの復讐』

スター・ウォーズの第六作を観た。

避けられない結末に向けて次々と悲劇が起こるさまが、古典の趣をたたえていた。これをシリーズ最良の作品とおいてぼくには異論がない。はじめからおわりまですこしも目を離さずに観て、不満を感じさせる部分もなかった。

不安と恐怖が傲慢と重なりあって、憎しみに嫉妬、怒り、手に入らないものへの渇望へと堕ちていく。師匠を裏切り、同胞をほろぼし、愛するものをあざむいて、しかも守ろうとしたものは守れない。悪に屈しやすい人間の性をつきつけるように描いて、観るものをいましめるようなたたずまいを持っていることも、作品の力強さのうちにあるだろう。

みずからのなかにある恐怖に向き合えないものは、かえって恐怖をあたえる存在になる。猜疑心を制御できないことは、不安に打ち勝てない弱さの証であって、そこに邪悪が忍び込んで悲劇をまねく。そのような悩める魂が、最後には悪に転落するわけだが、悪の象徴をその苦しみの道に立たせて豊かな悲哀をもたらしている。すぐれた作品であるとおもう。

宇宙を飛行しながらのアクションも、ドロイドとウーキーの争いも、アクションに余念がない。ライトセイバーの戦いは冒頭から結末まで惜しみなく注ぎ込まれて、しかも最後にはアナキンとオビ=ワンの一騎打ちが暗黒卿ヨーダの一騎打ちにオーバーラップするという演出があり、文句のつけようがない。たのしく鑑賞した。

すごいお医者さんの話

夕方に急にお腹が痛くなり、そう気づいた途端に具合も悪いような気がしはじめた。思い当たる要因はいくつかあった。寝不足、水分不足、不規則な食事など。ひとまず水を飲んで寝ていたら回復して、食欲も戻ったのでその日は早く寝た。

未明にふたたび、強い腹痛で目が覚めた。ベッドのなかでどんな姿勢をとっても和らいでくれない。1時間を超える時間を、ただ苦しいばかりで眠り直すこともできなかった。病院を調べた。内視鏡の検査を先日に受けた近くの消化器科は、水曜日で休診だった。近所には内科医院がもうふたつあるのだけれど、どちらも水曜休診になっている。ただ一軒だけ、すこし古びたちいさな医院は受診できそうにみえたので、夜が明けたらそこに行こうと決めた。

それで気づいたらもういちど眠ることができていた。起きるなり電話をかけてから受診した。しばらく待たされたあとに医師と対面した。肉付きのよい朗らかな老医だった。症状を伝えると、紙のカルテに濃いインクでさらさらとドイツ語の所見を書いていた。寝かされて、腹部を押された。下腹が痛いとしか認知していなかったけれど、下腹のなかでも右側にホットスポットがあることを感じた。それを伝えると、限局性の回腸炎だと口頭で当たりをつけられた。うつぶせにされて、背中を強くマッサージされた。もういちどあおむけに戻ると、下腹を押された痛みが魔法のように和らいでいた。それで、回腸での消化不良だと診断が下された。

すごいお医者さんだとおもった。医師のいうことがたしかだろうとこの日ほどに信じられたことはなかった。

脂質と酒のみならず牛乳も控えるのがよいこと、新鮮な野菜を食べて腸内細菌を回復させること、そして背中をよくほぐすことを伝えられた。弱い整腸剤を処方するから飲むようにと指示があって、どうしても耐え難いときにだけ痛み止めを頓服するようにとも伝えられた。痛み止めは腸のはたらきを阻害して、痛みのみならず正常化も止めてしまうから、なるだけ飲まずに済むのがよいとのこと。

限局性回腸炎という言葉は診断のなかばで聞こえたけれど、その場ではどういう漢字を書くのかわからなかった。帰ってきてからインターネットでみてみると、クローン病といって若年におおく発症する疾病をかつてはそう呼んだらしい。とはいえ先生は単に限局性の回腸炎といったまでで、クローン病とは言わなかった。あるいはこの前の内視鏡検査でみつからなかった病名はこれであるのかもしれないけれど、最後には背中の凝りと消化不良と結論付けられたわけで、運動と食事で改善すると診断されたからにはそれに努めて、勘ぐることはするまい。

いい病院をみつけることはむずかしい。未明に苦しみながら調べた隣駅の救急外来は、ひどく無機質なホームページに時間外手数料の情報だけを載せていて、電話をかけることをはばからせた。いっそう、救急車を呼んだとてきっとこの救急外来にまわされて手数料をせしめられるのだからと、我慢させることに重きをおかされた。症状がやわらいだからこそ平穏としていられるが、もしも重症であったならば、ぼくもまた緊急の助けを求めそこねて初動を遅らせてしまう側の患者であるのだろうなとおもった。そうさせる無形のバイアスがあそこにあったのだなと手応えをもって知った。

東京・春・音楽祭「ベンジャミン・ブリテンの世界V」

日曜日に東京・春・音楽祭のベンジャミン・ブリテンを聴きにいった。会場ははじめての東京藝術大学奏楽堂。

ベンジャミン・ブリテンの世界V」と題されているのは、この音楽祭でブリテンを取り上げる連続シリーズの五回目にあたるからだという。そしてこの日のプログラムはそのシリーズの最終回として、オーケストラ曲をあつかう。

演目は「チェロ交響曲」「シンフォニア・ダ・レクイエム」「青少年のための管弦楽入門」の三曲。それぞれの演奏前に、指揮もつとめる加藤昌則さんがレクチャーをおこなって、観客はそれを念頭におきながら実演を聴く。作曲家の立場にたって、作品のどこにブリテンの工夫が与えられているのかを惜しげもなく披露してくれるというのは、めったにない機会だった。

はじめてブリテンの作品を生演奏で聴いた。その名前を知ったのは、新宿のタワーレコードを物色していたときのことであった。作曲家の棚のインデックスになぜか地域名が混ざっているようだ、と近づいてみたら、それがファミリーネームであったのだ。作品にはじめて触れたのは、 Spotify の Discover Weekly で聴いた「青少年のための管弦楽入門」だった。一聴して気に入ってプレイリストに入れた記憶がある。

きょうの「青少年のための管弦楽入門」では、俳優の中嶋朋子さんがナレーションを務めた。もともと子供向けに音楽振興をはかる映像作品のために作曲された作品で、オーケストラの楽器をひとつひとつ取り上げながら進行する構造になっている。まずオーケストラ全体を、弦楽器と木管楽器金管楽器に打楽器と四つのグループにわけて、そのグループごとに各楽器を順番にフィーチャーしていく。協奏曲かあるいは小作品でもないときに、すべての楽器に注意をはらいながらオーケストラを聴くということはめったにないことだ。管楽器はジャズで覚えたくちだから、オーボエという楽器の音色と名前はじつはきょうまで対応していなかった。それを学ぶ機会となったこともうれしい。

シンフォニア・ダ・レクイエム」が日本帝国へのあてこすりをはらんでいることもあわせて、「青少年のための管弦楽入門」のような表題をつけるのは、どこかモンティ・パイソン的な諧謔趣味であるのだとおもっていたのだけれど、かえって大真面目に青少年のために作曲しているというあたり、底知れない態度であると感じた。冒頭の主題はバロック時代のイングランドの作曲家から引用しているということも、終盤のフーガが最盛を迎えているときにふたたびその主題を回帰させて興奮を誘うところも、大胆に知的なやりかたでほれぼれとする。