ユユユユユ

webエンジニアです

『クローンの攻撃』

スター・ウォーズの第五作をみた。監督は引き続きジョージ・ルーカス

これはあまり好みでなかった。終始沈鬱な雰囲気を発しているのは、アナキンに葛藤があるせいだが、彼は善と悪のあいだで揺れるというよりも、いつも悪のほうに振れていてかろうじて周囲がそれを支えているというようにみえる。ジェダイ・マスターたちは彼がフォースにバランスをもたらすものと信じようとするが、ヒーローの素質はついぞ垣間見えることがない。前作の幼いアナキンがみせた才能はすでに枯れている様子で、次作を待たずにダークヒーローに成り果てている。つまるところ、葛藤はアナキンのなかにはなく、彼を取り囲むひとびとのなかにだけある。

パドメが堕落をうながしているようにもみえる。とりわけ、ナブーを離れないというみずからの信念を忘れて、アナキンの母を救いにタトゥイーンに同伴するあたりから、毅然とした女王の姿は消えていた。捕縛されたオビ=ワンのメッセージを無視してジオノーシスに向かうところなど、パドメはひとが変わったように拙速である。それでいて、侵入のやりかたはお粗末がすぎるのも考えものだ。

足早に作ったような印象がすくなからずある。中盤では、1分ずつの短いシーンが矢継ぎ早に提示されてモンタージュのようになっているが、これはかえって落ち着きがない。アナキンとパドメが草原でたわむれる場面は、あとからおもえばパドメの恋愛感情が刺激される重要なシーンであったようにもおもわれるが、とってつけたような印象があったことは拭えない。

『ファントム・メナス』

スター・ウォーズの第四作をみた。ジョージ・ルーカスが第一作以来に監督を執っている。

小学生のころに劇場公開された。映画館に連れてもらいはしなかったけれど、テレビ放送を録画したものを繰り返し観た記憶はある。きっと次作の公開時に放送されたのだとおもう。ウィキペディアアーカイブされた放送記録が、これを観た記憶に符合する。

冒頭にクワイ=ガンとオビ=ワンのコンビがライトセイバーで大暴れするシーンがあって、一気にボルテージが高まる。終盤のダース・モールとの戦いもあわせて、殺陣のクオリティはいちじるしく高い。時代と技術の制約はあるにせよ、ルーク対ベイダーの戦闘をはるかに上回っていた。ライトセイバー同士の戦いに見応えがあるのは当然として、レーザー銃を跳ね返して敵にお見舞いする技術が確実であることも、卓越したジェダイの凄みとしてよく描かれている。

アナキンのポッドレースも格好いい。まだ声変わりもしていない少年が何年もかけて手作りしたマシンで出場するという設定もいいし、レース中に数多くおとずれるトラブルに順応するのみならず的確にコントロールしてみせるパイロットの技術もいい。なにより、不正と暴力が野放しになった競争にあって、みずからの腕ひとつで正々堂々と勝ち抜くさまがいい。いっさい言葉をつかわずに、映像だけでレースのすべてを描いているところもいい。

人気のある作品の前日譚を描いて、かなり成功した部類にはいる作品だと感じた。おおきな主題に拘泥せずに、のびのびと風呂敷を広げていることがスケールを大きくしているのだともおもう。たとえば『ハン・ソロ』はハンの過去を描いておもしろかったけれど、『ファントム・メナス』はかつての善良なアナキンのみならず、オビ=ワンの修行時代もあつかう。さらにはまだ絶滅していないジェダイのクランもあらわれるし、帝国がやってくる前の共和国の統治システムの機能不全も語られる。そして最後には悲劇がおとずれることがわかっているのに、希望を信じさせるようなつくりになってもいる。実におおくのことが興味深く語られて、表面的にみえる以上に複雑な作品であるとおもう。

「フォースのご加護を」という台詞をジェダイ・マスターが使うことは、過剰なファンサービスにみえた。そもそもは『新たなる希望』でフォースを信じなかったハン・ソロが作中に一度だけ発した言葉で、それは激励とも皮肉ともとれるやりかたでとらえられていた。そのことをさしおいて、ジェダイマスターにこれを話させてしまうのは、いくぶん空回りしているようにみえてしまう。

もっとも、これは『ローグ・ワン』でなぜかただの反乱軍の合言葉みたいになっていることに強烈な違和感を持ったことを引きずっているところもある。もし『ローグ・ワン』を先に観ていなければ、フレーズの過敏症にもならずにもっと素直に聞き入れることができたのかもしれない。

『ハン・ソロ』

スター・ウォーズのスピンオフ映画を観た。監督はロン・ハワード

ブロックバスターのノリに波長があってたのしく鑑賞した。あまり期待せずに観始めたのは『ローグ・ワン』の後味もあってのことだったけれど、こちらは打って変わって最後までスクリーンにひきつけられ続けた。

ピンチを迎えて、それを脱するという典型を繰り返す構造はおなじであるときに、なにが差をつくるのだろう。すくなくともこの映画は、擦れっ枯らしの決り文句をキャラクターに話させていないことはあげられそうだ。それ以外の成分は、よくわからない。

正直なところ、冒頭からしばらくは、いくぶん駆け足の展開と、それを促すための情緒の省略、そしてどうも画面全体が暗くて役者の表情がよくみえないというライティングのトラブルがあって、あまりリズムに乗っていなかった。そのままであったら失望が待っていたところ、最後には盛り返して満足せしめているのだから、おもしろい。

キャラクターの魅力が立っていてよかった。主人公はおおむねよく知られているとはいえ、別の役者が演じているわけだから、新しいキャラクターを作り直すようなところがあったはず。しかも、先行する補助線を切り捨てないように造形する必要がある。それをうまく処理しているとおもう。チューバッカとの出会いは、やや駆け足だった部分にあたるのでやや消化不良気味だが、その後の関係は安心してみていられた。とはいえ、こう書いてみると原作が省略していた細部をうまいやりかたで埋め直すことは不可能であるようにもおもわれる...。

コアクシウムを奪取した一行が帝国軍に鉢合わせて、メイルストロームという空域に逃げ込むところもよかった。タコのような超巨大生物に襲われたうえ、巨大な重力点にひきつけられる必死のシーン。ここは特殊撮影のスケールがおおきく、船内のどたばたと、それでいて慎重にならざるを得ないお膳立てが緊張感をバランスさせていて、名場面だったとおもう。

最終盤、繰り返し言及されてきた信頼という言葉が、二重三重の裏切りによって前景化するところがよい。いくつかの関係は、決着をつけないまま幕を下ろすのもいい。ホログラムで登場した暗黒卿の手先のライトセイバー使いは、よく知った姿であるものの、ぼくのなかでの作品の時系列にはそぐわなくて、謎が残った。たぶんウィキペディアをみればわかるのだろうが、これは最新のナンバリング作品を観るまでお預けにしておこう。

ルークの物語にあわせて反乱軍と帝国の戦いをみるにつけ、いつも苦境を強いられる反乱軍の物資が枯渇しないのはどうしてだろう? と非ファンタジーの発想を持ってしまっていたことは事実。そのことの根拠が部分的にせよ説明されていると感じた。もっとも、それを説明したところでどうした、という思いもある。おもしろいものはおもしろい、ということにとどめておこう。

東京・春・音楽祭「ミュージアム・コンサート 毛利文香」

東京・春・音楽祭に、毛利文香さんと景山梨乃さんによるバイオリンとハープのデュオを聴きにいった。

ミュージアム・コンサートと題されていて、会場は国立科学博物館の常設展地下二階。哺乳類の化石の展示室で、天井からは大型海洋生物のおおきな化石を吊り下げて、周囲には偶蹄目と奇蹄目の先祖の化石を並べている空間の真ん中に即興のステージが作られていた。まずこの雰囲気がいつになく珍しく楽しい気分をいやおうなく持ち込んでいた。全席自由とされていた座席はすべて埋まっていた。

モーツァルトの「バイオリン・ソナタ第21番」から。ピアノをハープに置き換えたアレンジで、事前に聴いた別の奏者の録音では短調の悲しげなさまが前景にでていた印象だったところ、この日の演奏にはむしろ明るげな霊感があった。はじめてみる毛利さんの演奏の所作は、身体をおおきくつかってもうひとつの楽器とのインタープレイを試みるといった様子で、恍惚なソロを弾くときにも、伴奏にまわるときにも、表情にも正中線の向けかたにも体重移動にも、音と対話しながら音楽を組み立てていくようなありかたが伺われた。気持ちのいい演奏だった。ついバイオリンに意識を集中させてしまって、ハープがメロディをつとめる箇所でもついバイオリンのほうを聴いていた。あとになって、ハープがピアノの代わりにどういう効果を持ち込んだかを聴き直して確認したいと願った。せっかくの珍しいデュオのアレンジだっただけに、すこし惜しんだ。とはいえ、いやらしいところはひとつも感じなかったことは幸福である。

毛利さんがいちど退場して、マルセル・トゥルニエのハープ曲「イマージュ第四組曲」がはじまる。これは印象派の雰囲気があって、音の粒がメロディとしてやってくるというより、音の塊がそれ自体は通り過ぎないままその場で変成し続けるような感覚があった。響きとリズムが渾然一体となって音が像を結ぶようで、ずいぶんモダンな雰囲気もある。

続いて景山さんが不在となり、毛利さんによるバッハ「無伴奏バイオリンのためのパルティータ第三番」となる。厳かなメロディが整然として心の平安をもたらすというほかに、天井から大型海洋生物の骨が会場を見下ろしていることも荘厳さを加えていた。会場の照明は、博物館の常設のものであって特別の演出ではないはずとおもうのだが、強く注意を惹かない間隔で明暗を静かに行き来していて、演奏の盛り上がろうというところで光がさりげなく明るさを増すようなことがあると、恍惚たる気分となった。

インターミッション中は、固まりかけた背中を動かしながら歩いて展示を眺めた。

後半の冒頭は、ドニゼッティの「バイオリンとハープのためのソナタ」にテデスキの「セレナード」と小さな美しい作品が続く。これらは毛利さんがハープとの演奏のための調査をして発見したものだと話していた。このふたつが、とりわけ「セレナード」が、もっとも深く印象に残った。すこしロマンチックで、通俗的なところまである素朴さが、ゆっくりと響かせる演奏によって感傷を誘った。そしてその感傷がすごく好きだとおもった。あらかじめプログラムの予習をするために聴いてお気に入りとなっていたこれらを、めったにない場所で聴くことができたことは幸いである。

イベール「間奏曲」は、プログラムを読み落として事前に聴くのを怠ってしまって、うまく聴くことができなかった。そのあと、サン=サーンスの『サムソンとデリラ』より「あなたの声に心は開く」はオペラのアリアで、バイオリンが歌う。台本の意味を伴って聴いたことはないながら、痛切な叫びとも堂々たる絶唱ともいえる気持ちのいい響きが届けられた。素早く運指するのとは反対の、少ない音を長く吐き出すように響かせる技術にらんらんとした。

プログラムの最後もサン=サーンスで、演目は「バイオリンとハープのための幻想曲」という。これも構造を伴うインプットができていなかったから、いくぶん散漫に聴いてしまったことは否めない。あるいは「セレナード」の余韻が残っていて注意力を落としていたのかもしれない。しかし終盤にバイオリンがにわかに盛り上がりを増して技工をみせるところはおもわず聞き惚れるものであった。

毛利さんはオペラを好むことを繰り返し話していて、アンコールでもオペラ曲を取り上げると話した。作曲家の名前も作品の名前も、運悪く聞き漏らしてしまった。とはいえ、歌心のある演奏が気持ちよかったことは「あなたの声に心は開く」に同じであった。

桜のちょうど満開というところであったけれど、数日来の雨がこの夜も降っていて、並木道には向かわずに帰路についた。

『ローグ・ワン』

スター・ウォーズのスピンオフ映画を観た。『新たなる希望』の前日譚にあたる。

冒頭に帝国幹部が訪れるというのであわてるある科学者の家族の描写がおかれる。エゴイズムを隠しきれない父、意味もなく死に急ぐ母、押し黙る女児。駆け足気味にクリシェを乱発する出だしに非常に悪い予感が満ちた。

そしてその予感は誤らなかった。無毒な喜劇である。言葉ばかりがうわすべりして、映画の描くべきものが描かれていると信じるに足る瞬間はない。

ジェダの街がデス・スターに滅ぼされる表現はよかった。衝撃によって地面はめくれ上がって押し寄せて、砂礫は成層圏に達するまでに高く立ち上る。それは核兵器をいっそう超えるエネルギーの邪悪さをみせていた。とはいえ、これも人間の介在しないコンピューター・グラフィクスに過ぎないときに、やはり人間が映画を作ることの意味は満たされない。

現代のスター・ウォーズのファンが求めるのはこんな粗悪な品質のものということで正しいだろうか?

東京・春・音楽祭「シューベルトの室内楽」

上野で催されている東京・春・音楽祭に小さなプログラムを聴きに行った。マーラー編の弦楽四重奏曲「死と乙女」に、最晩年の弦楽五重奏曲のふたつ。

バイオリンが10人、ビオラとチェロが4人ずつ、コントラバスが1人というおおきく贅沢な編成だった。すべての楽器がひとつの主題を鳴らす合奏はいきおいよく、しかも各パートひとりを除いて手を休めるほど穏やかなピアニシモによっていっそうダイナミズムが増幅されていた。首と身体を揺らしながら音を鳴らすプレイヤーたちは、それでいて第一バイオリンの所作に目を向けることを怠らず、注意深いインタープレイをしていた。

どちらの演目も馴染み深いものではなかった。「死と乙女」は、第一楽章冒頭の鋭いテーマが印象的で、そのままスッとその先の演奏に引き込まれてしまう。予習をはじめてすぐに耳で覚えたのとおなじように、演奏がはじまってから最終楽章までじっと聴いた。第二楽章の途中で、すこし前に書いて、完成させられないままほったらかしにしていたプログラムのことを思い出して、あるいはこうやれる、こうもやれると想像をいざなわれる感覚があった。こういうと音楽への集中を欠いているようだけれど、音は完全に耳にはいっていた。抽象的な音が脳のなにかを刺激したのかとおもうと不思議な気分がする。

弦楽五重奏は、いくらか難しいと感じた。単に十分聴き込むことができていなかったために、構造をうまくとらえられなかったということはありえる。第三楽章のスケルツォにいたって、キャッチーな旋律があらわれてようやく集中力を取り戻せた気がする。とはいえすこし注意散漫になっていて、歯が立たなかったという悔しい余韻を残した。これが作曲家の最晩年の作品であるということは、帰り道の電車のなかで知った。もうすこし探求してみたいとおもった。

会場は東京文化会館の小ホール。キャパシティは 500 名強ばかりで、たしかに小さなホールだった。楽団との距離もいつもより近く感じたのも、単にそう感じただけではなく、たしかに近かったのだろう。プレイヤーが20名も登るとほとんどいっぱいになるくらいのステージをゆるやかな扇形に囲む客席は、空間に余裕をもってレイアウトされていて座席のあいだの移動がとても楽だった。中央ブロックの席は、気の利いた映画館のように前の観客の肩のあいだからステージがみえるように配慮されてはいなくて、いつもより背筋を伸ばして観た。左右のブロックは、ステージからの距離はほとんど変わらないながら、空席もいくらかあってよりのびのびと鑑賞する環境がありそうにみえた。次の機会があればあちらにも座ってみたい。

平日の仕事が終わったあとの夜に穏やかな会場で弦楽を聴くというのは、代えがたい贅沢だった。交響曲でなくて室内楽を聴く日だったこともますますその印象を深めている。いい趣味をみつけられたなと嬉しい思いもある。

『スター・ウォーズ ジェダイの帰還』

スター・ウォーズの第三作を観た。監督は再交代してリチャード・マーカンドジョージ・ルーカスが脚本にクレジットされているのは第一作以来になる。

前作までどこか頼りなさが残っていたルーク・スカイウォーカーは、冒頭から英雄の風格を身につけている。ジャバ・ザ・ハットの根城で逆境におかれても勝利を確信して堂々たる姿がそう。暗黒卿の門前でダース・ベイダーと一騎打ちをする場面では、緑と赤のライトセイバーで派手な殺陣をしていて、戦闘技術の大幅な向上はそこからもみてとれる。

死の描写はいくらか軽くみえる。みずから死期が近いと語るヨーダは、横になろうとしていただけだったはずが、なぜか急激に衰弱して去る。改心したアナキンは、ルークに右の義手をもがれたあとも健康そうに立ち回って暗黒卿をほうむったのに、その次のシーンで倒れる。ルークのほうがより長くフォースの電撃にさらされたことをおもうと、なにがアナキンにとって致命的だったのかはわからずじまいということになる。しかし、その性急さもまたエンターテインメントなのであろう。

ルークの父親への執着は、美談としてまとめあげられているが、キャラクターの心理としてはいまいち腑に落ちない気がした。悪としてしか対峙したことのない相手をどうして父として信じぬくことができるのか。父だからか? いくぶん「理想の家族」というバイアスに引っ張られているようにもみえる。しかし...父殺しの寓話に向かうのが自然ともいえるところで、そうはせずに父親像のファンタジーを貫くということの意味は、容易ならざるものがありそうだ。

音楽にも耳を奪われることがあった。ジャバ・ザ・ハットの宮殿での饗宴を盛り上げるファンク・フュージョンな曲もよかったし、エンドアでの大団円を飾るドラム曲もよい。『新たなる希望』の、オビ=ワンとハン・ソロが出会う酒場でかかっていたジャズがいくぶん「いかがわしい音楽」という意味付けだけを持っているようですこし違和感がことと比べて、本作の音楽演出はメタ意味が前景に出すぎずに、ただ音楽がそこにあるという様子で利用されているのが爽やかだった。帝国を打倒した祝勝会を、宮殿で貴族的に祝うのではなく、イウォークたちとカーニバル的に騒ぐのも、反乱軍の開放的な態度をあらわしているようでよかった。