ユユユユユ

webエンジニアです

マーラーの第五交響曲

オーチャードホールに東京フィルの定期演奏会を聴きにいった。アンドレア・バッティストーニの指揮で、演目はリストの「ダンテを読んで」のバッティストーニによる編曲と、マーラーの第五。前から7列目の席にいて、オーケストラはとても近くに見えたが、舞台奥の管楽隊のすがたが手前の弦楽隊と重なって隠れてしまっていたのが口惜しい。

ティンパニのもっとも小さい打音さえもはっきりとききとれることに感動した。家庭のスピーカーはコオロギの声に負け、イヤホンはエアコンの音に負けてまったく集中してききわけられなかった楽音が、ホールの演奏ではいちいちくっきりと耳に響いてくる。渋谷全体がこのくらい静かで集中力の充満した街であればいいのに。

全五楽章を通して、まっすぐ堂々と歩ききるような演奏だった。沈鬱が滞って暗い気分で立ち止まらずにはおれない、そんなムードはきょうの演奏にはなかった。金管と打楽器のクリアーで強烈な存在感がそれを感じさせなかった。

音のつくりと動き、重なり合いが、演奏家たちの動きを補助線にしてよく聴きわけられした。音だけを聴いていても聞こえない音が、目でみることによって聞こえるようになるという逆説。指揮者の身振りもまたしかり。彼が身体に力を溜める仕草をみると、フォルテシモを耳で聞く前に、目でそれを知ることになる。楽譜をみているわけでもないのに、次にくる音の質感を予測しながら聴く。計算高くそういう楽しみ方をしているというのではなく、指揮者とオーケストラの肉体の動きをみていると、そうして聞かざるをえないのである。そして100年前のマーラーの聴衆も、200年前のベートーヴェンの聴衆も、そうして音楽を目でみて聴いていたはずだ。

バッティストーニは、第四楽章でタクトをおいたまま指揮をした。それがどういう意味であるのかは知らない。

集中力を持続させる70分があって、最後の合奏が高速化しながら見事なフィナーレを迎えたときに、心地よい虚脱を感じた。最後の楽音と拍手のあいだにある一瞬だけの沈黙が、永遠のようにおもわれた。指揮者が両腕を振り上げて、弦楽隊は弓を一様にかかげて、音楽は残響だけを残して消えていく...。その瞬間が固まってみえた。これがもっともすぐれた音楽の形なのかと信じさせられた。

奥多摩にキャンプ

オレンジのハスラーを友達に借りてもらって、男子4人でキャンプにいった。行きは練馬から関越道。所沢、川越を通って青梅へ。帰りは土砂降り。渋滞を避けて、あきる野、八王子、日野、立川と下道をのぼって、国立府中から新宿まで中央道。

土曜日。奥多摩町と埼玉との県境の峰を車でのぼっていくと、道端に不意にロッジがあらわれる。これが中茶屋キャンプ場川を見下ろす山道をうまく利用して、バンガローとキャンプサイトがある。川をわたったところにも設備があるが、この日は夜から大雨の予報につき休業状態になっている。

とはいえまだ雨は降らないので、きれいな浅い川に足をひたして遊んだ。まわりには背の高い森、背後には川下に向けて背の低い滝が連なっている。森からきこえる虫の声と、滝に水が激しく飲み込まれて落ちていく音。静けさとはほどとおいはずであるのに、人工音でないというだけで耳にやさしく、いつまでも聞いていられる。うるさいのは嫌い、静かなのが好き、と思い込んできたが、たんに音のあるなしで測れるというものではない。もちろん、完璧な沈黙を求めていることはない。

バーベキューサイトも完備。ゴミの分別さえ適切にするという責任だけが与えられて、燃えかすの後始末も調理器具の油落としも、キャンプ場が肩代わりしてくれる。つまりはキャンプというより、アウトドア体験のエンターテインメントというほうが近いかもしれない。それでつまらなくなるはずもない。

秋の山にいるわけで、夜にはもう寒いくらいの温度でさえあるはずなのに、ひとばん焚き火を囲んでいるとずいぶん身体が火照ることになる。真っ暗な山道を最低限の明かりだけで冒険したりして楽しむ。あまり無理はしない分別をもって切り上げて、ちいさなバンガローで軍隊のように雑魚寝する。

日曜日。火を炊き直しててきとうな朝食をしていると、急な土砂降りになる。山道をひっきりなしに雨が打って道のうえに小さな川をつくる。屋根のあるところで後片付けをすませて、車までを一気にわたっても、あっというまにずぶぬれになる。川が増水しているかどうかを見にいく余裕ももたずに撤収する。

車でいちど山を下り、もういちどべつの山道を越えて、温泉施設にむかう。瀬音の湯。ぬるぬるしたお湯は手の平でこすると泡立つ。露天風呂は大雨。サウナのあとの水風呂も露天。静かな水面に大粒の雨がバチバチと叩きつけてはねる珍しい景色をみた。

未就学児が6人くらいつどって、飛び込み、バタ足、その他の傍若無人をはたらいていた。なにせ人数があるから、ひとりを選んで叱るのもまとめて叱るのも収まりがわるく、お犬様もかくやというぐあいに黙って狼藉をみていることしか、大人たちにはできなかった。

温泉の食堂でそばを食って、お土産屋で団子を食って、帰る。高田馬場で車を降ろしてもらう。最寄り駅から家まではふたたびずぶぬれになって歩いて帰る。翌日すこし喉をわるくしたのは雨に打たれたからかもしれない。

『勝手にしやがれ』

正直なところ、この映画に強い印象や大きな存在感を感じてはいなかった。学生の頃にお勉強で観賞して、ふうん、と思ったくらいだった。つまらないとは思わなかった。ベッドの上でタバコを吸うのは格好いいけど、灰のやり場所にこまるだけだから真似することもなかった。

ゴダールが死んだので観直した。烈しい感銘はやはり受け直さなかった。つまらないとは思わなかった。じっと集中して最後まで観た。あらゆる現代的な手法が模倣されてもなお陳腐にみえずに、みずみずしかったひとつの時代のパリを永遠のものにしていることは、ひとえに凄まじいこととおもう。

警官殺しの悪党の逃走。若く都会的な恋のやりかた。そして安い死による終幕。まあまあ、通俗的なシナリオでさえある。

それくらいの軽薄な素振りがかえって気持ち良い。肩の力をよく抜いて、エゴイスティックなコンセプトはない。美しい女性がパリにいて、外国人としてはたらき暮らす。頭のいい彼女はちょっと悪いフランス人のボーイフレンドと恋をして、ひと夏の冒険をする。ひっきりなしにおしゃべりをしながら。

冒頭、ベルモンドは唇を親指でなぞり、盗んだアルファロメオをかっとばして、「フランスは最高!」とか「女の運転はとろすぎる!」とかひとりでスカッと軽口をたたきながら(それがブツブツと陰気な毒でもなく、ガーッと怒りっぽい叫びでもなく、単に陽気で気持ちのいい大声なのはとてもよい)マルセイユを脱出する。その道の途中でバイクの警官をダッシュボードに偶然あった拳銃で殺害する(フランスではピストルはありふれた武器なのだろうか)。この警官の命は演出上の小道具程度の重みしかないわけで、惨たらしいとしかいいようのない話であるはずが、たいして彼は画面にも映らずにあっさりと撃たれてあっさりとカットされるものだから、陽気なトーンはつまずかない。

そしてパリ。明るい午前中のパトリシアの部屋での長い雑談とじゃれあい。妙に哲学的なことを言ったりするのは単に彼らが若いからで、重くとれば深遠な主題として意識をひきずりこみかねないが、そのまえに軽やかに脱線させることで決してこちらに難しく考えさせようとはしない。妊娠したかもしれないと話したあとに、パトリシアがフォークナーの『野生の棕櫚』の話をする。この小説が堕胎手術の失敗と妊婦の死を扱っていることを知っていれば彼女にその話をさせることはいかにも不穏だが、それさえも軽くいなして映画は走る足をとめない。

単なる路上のカットで不意にジャズを流したりして現代的なみせかけをさせながら、実は最新のモダンジャズは選ばずに、ゴダールは一時代昔のスイングジャズをかけている。徹底的に前衛であろうという気負いはまるでないようにみえる。なにせミシェルが最後の朝に聴くのはモーツァルトクラリネット協奏曲である。浮足立った前衛を語る前に古典に耳を傾けよと示唆しているようだ。

若い主人公たちの年齢をいまや通りこして観ると、ジーン・セバーグはいっそう美しく輝いてみえるし、ジャン=ポール・ベルモンドはすこし老け顔で、もう若くないのに突っぱるしかできない悲哀にもみえる。

都立家政のゲオでDVDをレンタル。このために会員証もつくり直した。

ヘリノックスのチェアワン

来週末に奥多摩にキャンプにいくことになった。せっかくだしなにかひとつ余剰物資をもっていけると楽しいだろうな。コンパクトで、それでいて座り心地のいいような野外用チェアがあるといいなとおもった。

新宿までいってみることにした。快晴だったから、自転車を使った。あんがいいたるところに駐輪場があって便利だった。

ほとんど知識を持たずに製品の列を眺めた。興味がなければすべて似たようにみえるチェアにもいろいろあって、軽さ、大きさ、座りやすさ、どれも捨てがたかった。どう選べばいいか迷って相談したときに、「ヘリノックスおすすめ」とごく手短に推薦してくれる友人がいて助かった。

それからはヘリノックスだけを探してうろついた。いくつかの店舗を東口で巡ってから、最後に南口のモンベルを訪れた。展示品に座ってみて、チェアワンという製品を選んだ。見た目は小さいのに深く座っても狭く感じないし、片手でフワと持ち上げられる軽さも気に入った。横向きにしまってもリュックサックにすっぽり収まってしまうことに二度おどろいた。

家に持ち帰っていちど組み立ててみた。骨組みに布を貼るときにあんがい腕力に頼って押し込めないといけなかった。そうでなければ張力が足らないというのもわかる気はしつつ、骨組みを壊してしまわないかと心配しながら、思い切り力を込めて完成させた。ひとまず座れはしたし、腰を持ち上げるのが億劫になる座り心地ももういちど味わった。

屋内でもじゅうぶんに使えそうだが、フローリング上だと床を傷つけてしまいそうで、そのまま分解して、収納した。ペラペラの絨毯でもひいてあればよかった。オーディオの正面において、これに座って音楽を聴けたら気持ちいいだろうな。

思い出された万年筆

日記を長く書くときにボールペンでグリグリ書き込むのは手が疲れる。紙の上にペン先をおいただけで文字が流れていってくれるといいなとおもった。

学生の頃にプレセントされた真鍮の万年筆があったはずとおもって探したら、昔のトラベラーズノートのポケットに挟まっていた。3年以上ほったらかしにしていたので、手脂で酸化して鈍く汚れてしまっていた。ボディは酢に浸して金色を回復させて(すっかりピカピカにはならなかった)、ペン先は水洗いして固着したインクを取り除いた。

乾くのを待つあいだ、挟んでいた側のノートを読んだ。ドイツに発つ前、そのころの友達と、鎌倉、足利、ディズニーランド、沖縄を訪れたときのメモや切り抜きが留められてあった。そしてドイツについてからの日記、ホロコースト慰霊碑からの抜粋、美術館での覚書がしたためられていた。その先は白紙になっていた。このノートがあることを忘れてしまっていたらしい。万年筆もそれと一緒に忘れられていた。

新しく注文し直したインクカートリッジを差し込んで、もういちど書けるようにした。

北八ヶ岳

職場の友人に誘われて八ヶ岳にのぼった。ニュウという峰に登り、そこから中山という峰へと渡って、下山した。2000メートルほどの地点にある登山口から、2300メートルを越すくらいの高さまで上った。それくらいならなんとでも、という軽い心意気で臨んで、しかし岩だらけの行路は、登るには肺を、下るには脚を厳しく酷使させられた。

天気に恵まれた。雲は厚かったが、火照る身体に嬉しい涼しさがあった。ときおり差す日光も、背の高い松やら白樺がゴボウのようにまっすぐ伸びて空を蓋してくれた。そのあいだからまれにこぼれるまっすぐな光線が濡れた低木を照らすのも見事だった。

登山口をはいると、美しく板で整えられた渡りがあって、左右に一面、苔むした原生林がひろがっていた。鮮やかな緑の苔が土と木肌を覆っていて、そのすきまからみえる茶色とのコントラストも美しかった。

板の舗装がなくなると、腐葉土とぬかるみの道となった。足場のやりばを常に意識しながら、あちこちの水たまりにランニングシューズを突っ込まないように歩いた。入念に進んでも、気づけばシューズはおろか、蹴り上げた泥土でふくらはぎまで汚していた。失敗の跡を身体にまとって進んだ。

休み休み上り、ニュウの山頂につくと、開けた見通しのふもとに諏訪の街が小さくみえた。目線の高さに霧のかたまりのようにして雲がやってきて、すぐに厚く閉ざされてしまった。すこしでも晴れた視界を手に入れられたのは幸運だった。岩山の頂点で記念撮影をした。野球帽の下が汗まみれになった。タオルを頭に巻いて、その上にかぶり直した。

中山の頂は尖った岩で満ちていた。その上を渡って歩いて、腰掛け型の岩にカップラーメンとおにぎりを広げてお昼ごはんにした。手慣れた友人が小さなポットとガスボンベでお湯を沸かして、ウインナーさえ炒めてくれた。美味だった。雲のなかにいると涼しかった。日差しがさすと焼けるようだった。2300メートルの高さに、あんがいハエが多いことを知った。

お昼までに3時間を登り渡った。下山はそれよりもいくぶん速くなるだろうとみつつ、ここまでに十分な体力を消耗した身体にとってはたいへんな行路だった。まっすぐに降りていくだけの道は大きくなめらかで濡れた岩の群れに満ちていた。あらゆる一歩にスリップの罠が潜在していた。しかし及び腰で進むにしては登山口はあまりに遠かった。正しい足のやりばをリズムよく判断して次々に踏み出していかなければならなかった。

はじめのうちは後ろからくる慣れた歩みの下山客を次々に先に通した。やがてテンポをつかめて、するすると進めるようになった。なかば岩のあいだを飛ぶようにして歩けるようになった。足首をあらゆる角度に傾けて、ふくらはぎで全体重をうけとめていることが意識できた。止まって一休みすることよりも進みつづけることが気持ちよく、ほとんど駆け下りるようにして下りきった。

登山口から車で15分ほどの八峰の湯に浸かった。くるみだれのそばを食べた。談合坂のサービスエリアでほうとうも食べた。大月から先、トンネル内の故障車が渋滞を起こしていた。20キロを90分という予測があったが、サービスエリアで休憩してふたたび発つころには20分ほどに縮まっていた。

八王子駅まで送り届けてもらい、中央線特快で帰った。5時に家を出て、戻ったのが23時だった。寝て明けると月曜日だった。身体の疲れと痛みがあらわれるぶんだけ、いつもの週明けとは違う、すこし気持ちのいい週のはじまりだった。

仕事への意気込みのあいまいさを話していたときに、不意に山登りに誘われたのだった。それでいて、この一日はほとんど仕事の話はなかった。ただ自然と風呂と美食を浴びて、気持ちよく疲労して眠った。山のなかには近代のしがらみも都市の憂鬱もあるはずはない。頭のなかの小さな世界で煩悶するのではなくて、自分よりずっと大きな時間の流れに手と足で触れた。尻もちをついたから、腰でも触れた。形のあるものを生み出そうとするのとは違うやりかたで、自分自身にエネルギーを注いで癒やされる感覚があった。

Local Green Festival '22 Day 1

土曜日はフェスに遊びに赤レンガ倉庫にいった。ライムスター、キャンディタウン、ナルバリッチと3アクトをみた。各組だいたい50分のセットを演じてくれて、つごう3時間気持ちよく身体を動かした。

3年前にお台場のフェスで観たライムスターをもういちど観に行こうとしばらく友達と話しながら、ワンマンは競争率が高くて気づいたころにはすでにソールドアウトしている、ということが続いていた。たまたま見つけたこのイベントは、開催地も予定もちょうどよかった。

気温よし、天気よし、横浜の開放感よし、日帰りできる気軽さもよし。まったく申し分ない。

会場につくとちょうどライムスターの出囃子が鳴るところだった。自分たちだけのものではない観客にヒップホップの楽しみ方を啓蒙するステージングが粋で、しかもそのいっぽうで Run-DMC ばりの細かな掛け合いを披露し、 Shaft in Africa のビートを使い、スチャダラパーの柔らかいカバーで場を和ませた。

キャンディタウンはサブステージに出演した。メインステージよりひとまわり小さいとはいっても、野外で大音量で聞かせる大人数でのマイクリレーは迫力があった。たぶん15人そろっていたんじゃないかとおもう。50分間いっさいとぎれることなく、次から次にラップをしまくっていた。とんでもない音圧の低音の上でハイハットが細かく跳ねまくるトラップ系のビートは、知らない曲でもいちいち格好がよすぎる。最後は R.T.N と Get Light で大盛りあがりして終演。ひとまわり上のイケてるお兄さんたちとおもって聴いていたグループをはじめて近くでみられたことが、音楽のよさとあいまっておおいにはじけた。

ナルバリッチは同伴の友人がこの機に聴き込んで大のお気に入りになったというので、知っている曲はひとつも持たないままだったが、間違いなく優れているだろうと楽しみにしてみた。ジャミロクワイ風の楽しく動ける曲からはじまって、 Mummy-D のゲスト参加もはさんで、 Step It でおおいに縦に飛び跳ねさせられて大団円。友人はいちばんのお気に入りの Tokyo という曲を聞けたことに感動していた。わかりやすく、しかしほどよく捻ったリズムが身体の記憶として残された。そしていまそれらの新しく知った音楽を聞き返してみると、たとえば野外ライブのために、キーボード単体のフレーズにツインギターのユニゾンを加えて音圧を上げるなどの工夫があることを教えられる。シンプルでダンサブルな音楽の格好をしていて、技術的裏付けがかいまみられるところに刺激がある。

青空が見えて、潮風がほどよく吹く、横浜のもっともよい気候からはじまって、ナルバリッチのステージの途中で、夕暮れ、日没となった。夜の雰囲気もいい。しかし、たがいに次の日の予定もあるから、ここまでをみていさぎよく撤退する。

ワールドポーターズでハワイアンを食べた。友人の、退職、起業の準備、入籍の予定、世界旅行の計画、などをわくわくする話を聞かされた。こちらはなにをやっているんだろう、と嫉む代わりに、自分のペースを維持してただのんびりとやろう、という爽やかな気分を得た。夏のおわりに開放感があった。

桜木町から横浜駅まで、根岸線は異様なすし詰めだった。こんなにひどい満員電車はドイツに発って以来すっかり忘れていた。

満員電車の不愉快は別にしても、あんがい疲れるものである。10年前、東京に上ってきた最初の夏休みに、フジロックに遊びにいった。前夜祭から最終日のヘッドライナーまで3泊4日を、傾いた地面に張ったテントで眠っては遊び倒していたそのころに比べれば、体力の最大量が減っているのは明らかだ...。