ユユユユユ

webエンジニアです

『リコリス・ピザ』

断片的なエピソードを恣意的にみえるやりかたで接合して長編に仕立てた印象があった。ひとつひとつの断章はおもしろい小話になっているが、全体を統合する構造をつい探してしまい、それがあらわれなかったことで肩透かしを受けた感覚があった。

青春映画の体裁をもっているが、それほど爽やかな作品ではない。甘い情感よりもむしろ、過去のアメリカに向けた情緒と郷愁が勝っていて、カリフォルニアを舞台にして人間を描いたというよりも、群像を利用してカリフォルニアの文化を描いたというほうがしっくりくる。しかしそれにしてもすこし踏み込みが甘く、結果としては恋愛映画とも社会映画ともとれないどうにも宙ぶらりんなトーンになっていたようにおもう。主人公の男女はともに強いエゴを持っていて互いに譲らず、最終的な恋の大団円を正当化するほどの成長を作中で遂げたとは思われなかったし、ベトナム戦争オイルショックのような社会の状況も、表面的な情報として描かれるのみで深入りはしていなかった。

短編オムニバスとしては悪くはない気もするが、長編としては焦点が定まっていないという感覚がある。『わたしは最悪』でも同じ不満足があった。断片的なイメージを描くのであれば断片のままにとどめておけばよく、無理にプロローグとエピローグを与えて、束ねて総括しようとしなくてよかったんじゃないか。

あるいはポール・トーマス・アンダーソンの新作というので期待のハードルを高くしすぎていたかもしれない。同じくカリフォルニアを舞台にしてしかも時代の設定も近かった『インヒアレント・ヴァイス』のほうが、支離滅裂のなかに喪失や悔恨の情が伺われて好きだった。日本語を脚本に織り込むやりかたもそこからの二番煎じであったが、今回のやり口はシュールではなくカリカチュアに向かっていて、気持ちのいいものではなかった。

劇中にウィングスがかかるのはよかった。しかし続けてデビッド・ボウイがかかるといくぶん興ざめしてしまった。

川端康成『古都』

川端康成が読みたいというよりは、京都の話を日本語で読みたいという気分があった。『古都』という作品があると聞き知って、それが新潮文庫から新装版で出始めているということも気に留めていた。その新しい版が区立図書館にあるのを偶然にみつけて借りてきて読んだ。『雪国』の冒頭のパッセージを知っているくらいの知識だけがあって、作家に触れたのはたぶんはじめてのことになる。

読み出しですこし挫折する感覚があった。生娘の視点からあわいすみれの花を愛でる描写がいかにも耽美的で、好ましくおもわれなかった。話の運びも日常のよしなしごとを描いて、まれに些細な人間関係のゆらぎが起こるほかは大きな事件もない。季節の木花とそれに合わせる着物と帯の装いを丹念に描いて、人物の描写には淡々とした印象を持った。

しかしそれは単に、はじめて触れる作家のリズムに乗れていなかったにすぎないものとおもわれる。というのは、語りのスタイルが大きく変わったとは思われず、変わらず静かなトーンが続くだけであるのに、やがてのめり込むようにして読み、なんの解決も起こらない結末を迎えるにいたってたしかな読書の爽やかさを残したためである。いたずらなどんでん返しも、狡猾な伏線の配置もなく、ただ京都の娘のある一年に、季節のうつろいと年中行事の描写を重ねて、はっきりしない風情と情感だけに頼って一本の小説に仕立てている。それが成り立つのは高度な技術のたまものであるとおもわれる。「美しい日本の私」と題して演説することができるだけあって、怖いほどに堂々としている。

清々しく自己韜晦を感じさせない態度であり、迷いを公にみせるタイプの芸術家とは明らかに異なる性質を持っている。伝統礼賛型の人物という先入観があって進んで読もうとしてはこなかったが、その僕の態度こそがつまらない自意識に囚われていたともったいない気分もしている。

Modernism: A very short introduction

芸術思潮としてのモダニズムというのにふと新しく興味がわいて、新宿南口の紀伊国屋の、洋書のフロアを久しぶりに訪れてこの本を見繕った。大学でロマン主義の講義をとったときに、これと同じシリーズの本をテキストに使って、英語のレポートはこういう文体で書けると学部生としては立派ですよ、と指導されたことが念頭にあった。オックスフォード大学出版局による刊で、入門書とはいっても英語の品質は最上だと信じられる。

絵画・音楽・文学を行き来しながら、モダニズムの大きな動きをいくつかのトピックから説明してくれている。平易に言い切ることができずに、範囲を限定したり例外を述べたりする説明の仕方は、やや文の構造を難しくしていたが、そういう細かい目配せがあることこそが、簡明でありながら学術的正統性を犠牲にしない、優れた入門書であることを思わせた。

寓意、神話、意識の流れ。これらはモダニズムと聞いてすぐに思い浮かぶもので、あらためて説明を読んで新しく知るところも多かった。個人と集団、政治。これはただちに想起するトピックではないながら、前衛芸術を特徴づける要素として重要なテーマとして発見した。モダニズムを前衛芸術と言い換えてほとんど違和感がないことも新鮮である。キュビズムはモダンである。ダダはモダンである。十二音技法はモダンである。

前衛といえど、あらゆるマニフェストを掲げて活動した多くの個人と集団があるから、それらをひっくるめてひとことに定義することは難しい。たとえばピカソアヴァンギャルド新古典主義を往来した。折衷主義的な色を見せることもあった。直線的な革新運動が可能であると芸術家たちが信じられたのは、彼らとその時代が弁証法唯物論を信じていたからともいえる。

ハイカルチャーポップカルチャーの折衷の例はいまやいくらでもみられる。しかし折衷とは、古典と前衛のあいだに見出して創造するものであって、芸術とは大衆文化からも中産階級文化からも独立したところ、本質的にハイカルチャーに属する場所にこそ生じるものである。たとえば技術的な追求は、それがいかがわしさの縁に近づくほどに、芸術の装いを強める。中産階級に好ましくおもわれる程度の技工であれば、それは技術にとどまる。

ピカソゲルニカは、空爆への怒りを爆発させたものとして通例受け取られる。それはあたかもゲルニカ空爆の生きた報道のようにみなされる。しかし発表の当時、写真報道はすでに当然のものであった。市民にとっての戦争の悲劇は、あるいは写真のほうがずっと雄弁にそれを物語っていた。それにもかかわらず、ゲルニカは報道写真よりも長い生命と影響を残した。歴史を超えて反戦を訴えるから素晴らしいのか? 違う。あらゆる時代と文化の視線をあびて、なおも多義的な神話とシンボルの体系をそのうちに持っているからこそ、いまだにそれは鑑賞され、ふたたび語られる。新たな意味が生成される。

歴史的伝統や主権国家の枠組みに飲まれずに、個人が独立した個人であることを尊重する。いっぽうでそれはアイデンティフィケーションや共感を尊重するというのとは論点がすこし異なるようにみえる。個人主義という意味の個人ではなく、独立した芸術的秩序として個人を定義する。イデオロギーではなく固有の経験として表現がある。それが芸術である。そんなことを言っているような気がする。

神話はあらゆるイデオロギーアーキタイプである。神話は歴史を従属させる。神話は反復する。しかし神話に飲まれずにわれらは立たなければならない。神話を取り入れて、芸術は個人をもっともよく語りうる...。

いくつものテーマをひとつに統合することは、およそできないのだろう。広い意味の現代芸術をモダニズムと呼ぶ。それが許されるくらいにモダニズムという概念の射程は大きい。ポストモダニズムという概念の存在は、モダニズムの乗り越えを意味しない。100年前のこの思潮は、いまだに有効な芸術的態度である。そうおもうことにした。実際、現代の古典と呼ばれるものはおよそ20世紀初頭のこの時代に生まれたものであるのだから、それがすでに克服されたとみなすのは尊大である。ロマン主義自然主義はあるいは廃れているかもしれないが、モダニズムはそれさえも折衷しているような気がする。モダニズムから学んで新しい芸術的態度をとるのは、時代遅れどころか必然に近くないか。そうおもった。

自転車の点検

自転車のサドルがガタガタになっていた。こぐと腰のトルクに合わせて尻の下でゆらいで、ズルズルストンと落ちるようになっていた。暑さでバカになったかと笑い話になればいいものの、まれに起こるだけの不調だったものが徐々に頻度を増して、不快であるだけでなく危険をもよおすまでになったので、自転車屋に持ち込んだ。家を出るときにはまだ腰を乗せることができていたものが、駅前に向かうたかだか10分のドライブで決定的な崩壊を遂げて、到着するまでには片手で容易にヌルリと着脱できるようになっていた。そうなってはもう乗っていられないので、炎天下を押して歩いた。

冬に買ったものが暑さに連動してダメになったので、安いメーカーに特有の劣化だろうかと想像していた。そうであれば、レバーを絞って固定する方式のサドルをやめて、パイプの部分に穴を開けて支え棒を通して固定するように改造してもらおうかとも。しかし二時間のメンテナンスが明けると、整備士には問題なし、油をさして緩んだネジを締めておきましたとだけ伝えられた。たしかに固く安定するようになったし、サドル高を調整しようとすると片手ではとても操作できないほど堅牢になっている。定期的にメンテナンスに訪れることと、それとは別に空気圧のチェックを欠かさないことを指導されて、帰ってきた。

素人からみると機体そのものの不可逆な故障とおもわれたものが、専門家の手にかかれば簡単な処置で解決することを見せつけられた。同時に、暑さに原因があると推測してそれを責めていたこちらの浅はかさを情けなくおもった。餅は餅屋。

ガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』

名誉が重んじられていた時代の小さな共同体で、「おれはあいつを殺す」というぐあいに、殺人が予告される。あるものはそれを酔っ払いの大言壮語とおもい、あるものは本気でそれを防ごうと奔走する。それを止めるチャンスは無数にあったはずながら、ボタンの掛け違いが積み重なって、殺人はついに成就する。

200ページもない中編ながら、色とりどりの登場人物を用意して、ひとりひとりの人格に奥行きが与えられている。若い金持ちと、屠殺人。古いしきたりに暮らす生娘と、色男めいたよそ者。彼らの家族、友人、仕事仲間。聖職者、町長、娼婦。階級、人種、性。関係性のグラフが縦横無尽に張り巡らされて、しかもそれが押し付けがましい語りになっていない。友人を死に至らしめる事件を語る「わたし」に感傷的な態度はないはずなのだが、事実を淡々と並べるやりかたが不思議とウェットな叙情性を伴っている。

ゆっくり読んでもたかだか3時間ばかりの作品であるのに、まるで大長編を読み終えたような後味を残した。実際、スケールとしては長編クラスのものながら、徹底的な洗練によって中編に結実したものにおもわれる。若い衝動によっては書くことができず、円熟の構成術によってはじめて可能になる技芸を感じる。これは古典と呼ぶにふさわしい。

先週末に図書館から借り出してきたものを、その日のうちに読みとおした。あまりのスリルに虚脱せしめられた。この週末にもう一度読み直した。「自分が殺される日、サンティアゴ・ナサールは」とはじまる衝撃的な書き出しにはじまり、最終行で彼が絶命するという構成にはじめは度肝を抜かれた。事件の結末ははじめから明らかになっていて、その語り方に芸術があるので、二度読み返してもまったく新鮮に読み得た。

30年前の印刷で、赤い表紙はすこし色あせていた。装丁からみて背表紙もかつては同じ赤だったようにみえるが、すっかり白く脱色している。書架に刺さっていた時間の長さと、そう多くは手にとられてこなかった歴史をおもわせる。本の真ん中あたりに、しおり紐が足を出さないように折り返されてとじられていたから、あるいは誰にも読まれずにきたのかもしれない。新潮文庫で容易に手に入るわけで、作品が忘れられているということはあるまい。しかし小さく品のいいハードカバーで読むのも乙であった。

『わたしは最悪。』

クライテリオン・コレクションのアーカイブから、気の向くままにお気に入りの映画をいくつかピックアップする短いビデオシリーズをこのまえ見つけた。このビデオではスターの風格を持ったレナーテ・レインスヴェという女優がフィーチャーされている。

https://www.youtube.com/watch?v=FAhUrrvwWPQ

きれいな人だな、とおもいつつ、彼女のフィルモグラフィはなにも知らないので調べてみると、『わたしは最悪。』という映画で昨年のカンヌで女優賞を獲っている。そしてそのタイトルはちょうど今月から国内公開をしているという。シネマカリテに観にいくことにした。

やりたいことはここにはないという空虚なおもいから、医者になる道を捨てて、心理学科、写真家と進路を転々とする女性をレインスヴェが演じている。しかしあちらこちらをそぞろ歩くようにして、どこにもたどり着いてはおらず、30歳を過ぎてもアイデンティティの拠り所を持てずにいる。子供は嫌いではないが、まだ作ろうとは思えない。でもその代わりになにを目指したいのか、自分でもわかっていない...。そういう話。

これはぼくの肌には合わなかった。情緒としてはぼく自身に重なり合うところも少なくなく、よく理解できるというよりも、ちょっと痛々しいくらい伝わってしまうところはあった。しかし、わかってしまうからこそ、予定調和に終止してしまった感覚が残った。現状を確認して、「それでも元気に生きていきましょう」という毒にも薬にもならない後味だけがあって、一頭地を抜くまでの感動は得なかった。ロマンチック映画なのだから、それ以上を求めて失望しても仕方がないのだけれど。

最初のショットはこうだった。サマータイムのゆうべを思わせる、夕方とも夜ともいいがたいぼんやりとした光のなかで、きれいな黒いドレスを身に着けたレインスヴェがタバコを片手に、内省的に立っている。そして遠くから耳馴染みのあるピアノ曲が聴こえる。アーマッド・ジャマルの "I Love Music" である。それだけでぼくはただちにフックされた。

しかし続けて、同居を始めたカップルが本棚に本を詰めるシークエンスで、ビリー・ホリデイが流れると、眉をひそめてしまった。なんだか、演出効果のために選曲しているのではなくて、ちょっとおしゃれなテイストで強引に成り立たせようとしているだけではないか、と一歩ひいてしまった。実際、ビリー・ホリデイの歌唱は絶品だが、このシーンでの演出の強度はそれに押し負けているようにしか思えなかった。

そうやってすこし引いた目で観てしまっているので、プロローグとエピローグに加えて、12の断章で構成するという制作のやりかたも、どこか技工が先走って必然性が伴っていないようにみえてしまった。登場人物のディテールを埋める章と、なにか大きい変化を起こす章とがあって、単にそのとおりに配置しておけばいいだけであるのに、あえて恣意的に12に割るという戦略をとったために、中編映画とその幕間のような具合に、とりとめのなさによくないピントが合ってしまっていた。冒頭で思わせぶりに12章構成であると宣言するやりかたもまた、技工の上滑りに感じた。

上映言語がノルウェー語であったのはよかった。レインスヴェはクライテリオン・コレクションのビデオで上品な英語を話していたので、てっきり英語を第一言語にしていると先入観を持っていた。ノルウェー語はドイツ語に似ていた。ドイツ語の単語がまれに聴き取れることがおもしろくおもった。

共感できるシークエンスはありつつも、共感したところでなんになるだろう、という態度も含めてみていた。観賞後にあらためて予告編を眺めてみると、「共感の嵐!」という売り文句がつけられていた。であれば間違った見方はしていなかったかな、とだけおもった。

バカと言いあう美しい世の中

当てこすりをすると、ひとまず溜飲は下がるが、あとになってこれがやれ誹謗だ中傷だ名誉毀損だと大騒ぎになると困るなあ、と萎縮させるような後悔もある。それは愉快でない。

バカ野郎とひとを罵り、それが「あなたの知性は低くいらっしゃいますね」と字義通りに解釈されると、よくない。異論が吹き上がる。しかし子供のころ、親や教師にバカ野郎と叱られたとき、それは存在の否定では決してなかった。むしろこちらの側が否定的・破壊的・反動的な振る舞いをしているときに、そのむなしさを白日のもとに晒して「尊厳ある生き方をせよ」という人生の指導であった。それが「バカ野郎」という粗暴な表現で出てくるのは、それより知的な態度をこちらがもっていないとジャッジされていたにすぎない。少年時代は事実、愚かに生きてきた。

特殊詐欺師にバカ野郎という。愚かな指導者にバカ野郎という。歩道を危険運転する自転車にバカ野郎という。バカげているからバカ野郎と慨嘆しているに過ぎない。社会にあってすこしでもいい貢献をして、尊厳をもって生きるべき人間が、もてる資質を活かさずに中途半端な、悪い仕事をしている。それがバカバカしいからバカ野郎という。

バカを直して真人間になりなさい、尊厳を持って生きなさい、と言っている。バカゆえに終身刑、とはならないのだから、気安くバカといって「あなたはいまバカになっていますよ」と教えてあげればよい。もしバカと言われたら、しかるべき反省をして踏み越えればよい。あるいは余計なお世話だバカ野郎と罵り返せばよい。そういう軽薄な口喧嘩こそが江戸の華、洗練された都会の仕草である。

つまるところ、バカ野郎と言わせる隙を与えずにおればよい。それが最上である。バカ野郎と言われて逆上するのは、たしかなバカ野郎である。それから、バカ野郎とおもいながら口に出さないのもよくない。バカをバカと言わないと、尊厳ある世界は作れない。バカばっかりになる。どんどんバカと罵りあって世界をよくしていこう。