ユユユユユ

webエンジニアです

期末試験のはじまり、ほとんどおわり

放送大学は昨日から一学期の試験期間になっている。今期からマークシート方式を廃止して、オンライン受験に移っている。この土曜日に4課程中3つを受験した。解析、線形代数、データベース。

解析の対策にいちばん不安があった。講義を聞いても五里霧中になって、なにも身についていない不安が強力にあった。それに比べればほかの科目はそれなりに楽観的であった。

月曜日あたりから問題演習を繰り返し解いていて、便利な定理をだいたい使いこなせるようになったかなというおぼろげな手応えでもって試験の過去問を解いてみたら、意外にもすんなりと解けてしまった。試験時間が50分と決まっているので、素早く計算しないと間に合わないことにおびえていたが、最後に覚えた留数定理に大きく助けられた。

しかし講義の内容はいちじるしく晦渋であるのに、どうして試験がこれほど易しいのかは理解に苦しむ。単位認定に求めるレベルが高くないのであれば、講義の抽象度合いもそれに合わせてしかるべきだ。まあ講師の不親切はいま初めて明らかになったものではない1ローラン展開を「ローラント展開」などと用語法を踏みにじって呼称したり、演習問題の正答例で符号をミスしていたり、およそまともな講義ではなかった。バカバカしい、といういらだちは、しかし腹に溜めてもなんの栄養にもならない。終わったことは終わったこと。ただ蓮實重彦にならって2、ひとこと「バーカ!」とだけ言っておく。

ともあれ、難関とみなしていたところが実のところそう厳しくもなかったので、さっさと受験を済ませた。そのいきおいで、線形代数とデータベースの試験も済ませた。あとは1科目、統計の入門講座の確認テストを受ければ、夏休みだ。

鎌倉殿の13人

今年の大河ドラマはめっぽうおもしろいという話を教えられて、この月から NHK オンデマンドを契約して、駆け足で最新話まで追いついた。ちょうど頼朝が物故したところ。13人というキーワードは次回から大きく取り上げられることとなり、いよいよおもしろく、そしてグロテスクになっていくところとみえる。はじめは苦笑いのよく似合っていた小栗旬が、いまや権謀術数のために目を怖く光らせているということが、その過程を一気にみてきたからこそよくわかる。そしてそれをこの先はオンタイムで楽しめる。

テレビドラマはほとんど観ないたちだから、国内の俳優には明るくなく、名前は知っていても顔が思い浮かばない、ということもしばしばある。そういうときに、このような大型タイトルで、若手から大御所まで何十名の役者が一同に会する作品をみられるのは、それだけでありがたい。知らなかった名前を知るのも楽しいし、知っていた名前に顔が与えられていくのも楽しい。

片岡愛之助佐藤B作秋元才加三浦透子栗原英雄江口のりこ。このひとたちはここで観られてよかった。この先も気にして観たい。宮沢りえ田中泯。このひとたちはこれまで観ずにいてごめんなさい。田中泯は昨年に舞台を観にいくはずだったが、中止になって流れた。それもやがて行かねば、と思い出している。

市川染五郎の凛とした佇まいにはとりわけ驚いた。17歳というが堂々たるもので、短い出演にも関わらずいちじるしい印象を与えた。なにを知っているわけでもないのに、歌舞伎の舞台で眺めてみたいとまで惹きつけられた。すごい。

松平健平清盛を演じており、50年前の『草燃える』でほかならぬ北条義時を演じていたとのこと。その『草燃える』もいまやオンデマンドでみられるし、小学生のときに放送していた記憶がはかなくある『北条時宗』も、松山ケンイチの『平清盛』もある。

おととしの秋ごろに、おなじようにひとに勧められて『真田丸』を全話鑑賞した。そのときには、新井浩文のスキャンダルでオンデマンド配信が凍結されていると知って、ツタヤに通い詰めていたのであった。

三谷幸喜の脚本作品のつながりで、香取慎吾の『新選組!』もみたかったところ、これはオンデマンドにはない。あれもこれもあるというのに、ついないものねだりをしてしまうから都合のいいものである。しかしいまや購読を済ませているから、あれこれと眺められるのがそれだけで楽しくある。『ストレンジャー・シングス』よりも国産ドラマをみるのがいまはしっくりくる。

真田丸』を借りていたツタヤは潰れてしまったし、そのころの部屋からも引き払った。10年使ったテレビは液晶画面からグリーンの奇妙な線が消えなくなってしまって、棄てた。どうせテレビドラマを観るなら、新しくテレビも買おうかなと寝ぼけたことをおもっていたが、結局のところ iPad で適当にみられる気軽さがちょうどいい。

日傘、図書館、台湾料理

猛暑につきランニングを止めているのだが、昼食のあとに散歩する習慣は残している。6月末に猛暑が続いたときに日傘を調達した。暑いことには変わりがなく、焼け石に水とおもいもしながら、それでも日差しを直接受けるよりはずっとマシだと信じて持ち歩いている。事実、それなしに外を歩き回るなどはもう考えられなくもなっている。

区の図書館の分館が歩ける距離にあることには気づいていながら、わざわざ自転車に乗って中央図書館まで足を伸ばしていた。自転車に乗っていては日傘が差せないので、きょうはその分館を初めて訪れる。雑誌でも読もうというつもりが、目当てのタイトルは購読していない様子につき、諦める。古い建築ながら館内はよく世話が行き届いていてありがたい。思い立ってガルシア・マルケスを借りる。借りるために利用者カードを発行する。

そばでも食べようかと歩くうち、小さい台湾料理店を見つける。惣菜と弁当の店頭販売をしている。足を止めるとただちに店内からひとがあらわれて接客をはじめてくれる。折しも温又柔さんの小説を読み終えたところであったので、誘われるままに、ここで食事をすることにする。魯肉飯を注文する。小説にはたしか、チンゲン菜の代わりにパクチーを添えるような描写があったとおもうが、この店はチンゲン菜である。ロバプンでなくルーローファン。好吃。

期末試験対策を少々。デュオリンゴで中国語のレッスンを購読。やがてヨギボーにふんぞり返って読書。夜はプールへ。きょうは妙に混雑していて、運動にならない。20分ばかりで切り上げる。土曜日の夜は空いていると知って、日曜日も同じことと思ったが、傾向が異なるらしい。

温又柔『魯肉飯のさえずり』

新しい小説を読むのはずいぶん久しぶりになる。読みだした最初の10ページほどはなかなかこちらのエンジンがかからずにいた。若い主婦がキッチンに立って独白するという、うまく自分にひきつけてもぐりこめない舞台から話がはじまるので、たしょうの戸惑いはあった。しかしそれはただちに払拭される。

高い自尊心をもつ男の欺瞞と偽善をほのかに感じさせながら、ただちに彼を弾劾するというのではなしに、その妻たる主人公の目に映るちいさな違和感を丁重に積み重ねていく。破綻のきざしをひとつならず垣間みせながらも、核心を乱暴につかみとろうとはせずに、繊細な心理の流れを堂々と描いている。それに感銘させられた。

国際結婚によって日本に移ってきた台湾出身の母と、その娘、日本育ちの若い既婚女性の話である。娘の側は、世間の国際理解の低さによってしばしば落胆を与えられてきたことから、つとめて台湾のアイデンティティを隠すようにしている。それはひとつには物心ついたころの、ひとと違うことを恐れる気持ちにはじまって、やがて思春期の反抗心をブレンドもしながら、日本語のつたない母への不満という形で描かれる。またいっぽうでは、家族の思い出の味として調理した魯肉飯をエリート気質の夫に無下にされ、失望して八角を封印するという描写にもあらわれる。視点人物を母親に置き換えるというツイストも施されていて、彼女の目からみた娘との関係の困難さも重い現実味をもって提示されている。それはつまり、精神的には明らかに未熟であるのに、なまじ自分よりも上手に日本語を操る娘に対して、不器用な言葉でしか本当に大切なことを教えてあげられないというもどかしい思いである。そしてわれら読者は、母娘双方の苦しい状況をひとり知らされてしまっているから、ハラハラとページを繰る手が止まらなくなる寸法である。

家族を描いて雄弁である。母の連なる台湾の家系を郷愁まじりに表現するいっぽうで、嫁として所属することになる夫の家系の居心地の悪さをそれに対比させている。特に信頼もしていない人間たちに、国籍から出産の話題まで、プライバシーをずかずかと踏みにじりながら侵犯される場面はたいへんな緊張感に満ちている。それを踏まえて、夫のもとを脱走して訪れる台湾の家族との交流は白眉である。言葉が通じなくてもわかりあうことができる関係をいっぽうにおいて、言葉が通じていてもわかりあうことが決してできないもうひとつの関係を対照させる。それがおもしろい。

魯肉飯と書いて、われわれは北京語でルーローファンと読むものを、台湾語でロバプンと読む。そうルビを振ってくれている。台湾の魯肉飯の味をわかるひととわからないひとがいて、後者の、非西欧文化を一級下にみて自尊心に満ち満ちた「日本人」こそがおそらくマジョリティなのだろうということは、諦めもまじえて消極的に認めざるをえない。しかしその魯肉飯を愛せずにはいられないひとにぎりの集団もこの社会には存在していると主人公は発見もする。社会通念としての結婚といういつわりの関係を終わりにして、そうした小さいが地に根を生やして揺るぎないコミュニティに身をおいて、台湾人のアイデンティティをふたたび引き受けて、尊厳を回復する。そのプロセスを浮かび上がらせるための小道具として、魯肉飯という一品料理を一貫したモチーフに使って、いちいちそれが効果的にハイライトされるさまが清々しい。楽しそうに食事をするのは善人、食事を粗末にする者は悪人、というアノマリーは一般にあるはず(借金取りたてのヤクザが食卓を台無しにする架空のシーンを想像してみるといい)。ここでは味噌汁とごはんの代わりに魯肉飯、というのが粋である。

『ベイビー・ブローカー』

もっとも崇高な瞬間はただ一度だけ訪れる。

それは決定的な破局の直前に訪れる。嵐の前の静けさといってもいいかもしれない。どうしてこんなことに、と浮足立ってもおかしくないときに、かえって運命をいつくしむようにして悠然としている。

灯りを消して、美しい心のありさまを演じる。次の朝までには、みなそれぞれの破滅を迎えている。しかしどこか晴れやかな印象がある。

是枝裕和が、ソン・ガンホを主演にして韓国チームと映画をつくる。赤ちゃんポストの話らしい。それだけを最小の事前知識としてもって映画館をおとずれた。予告編はみていないし、『そして父になる 』『海街diary』『万引き家族』のいずれもいまだみられていない。それは家族という巨大な主題に向き合う準備をまだ持たない若さゆえの回避行為も含んでいるはず。

「血縁は心を通わせるための条件ではない」ということと、「血縁によってのみ語る資格をもつべきことはありうる」ということが、どちらも正しいことを示す。それは国際的にも通用するじゅうぶんに現代的な思想でありつつ、大陸から切り離された極東の土着性をともなって、日本の文化芸術のもっとも重要な主題のひとつである。家族。

ユリイカ』『サッドヴァケイション』と、青山真治監督が家族を描いて優れた作品を続けて観させてくれた。それがいくぶん準備を整えてくれていたのかも。

大きくとらえたがるのはこちらの独りよがりであって、もちろん重苦しい話に終止するわけではない。洗車場でおおはしゃぎをする。楽しい家族旅行をよそおって警官を出し抜く。風邪をひいた赤んぼうの容態を切実に不安がる。こうして主役のグループを演じるバラバラの5人組は愉快そのものであった。

しかしソン・ガンホの存在感はやはりひときわ光っている。クリーニング店経営者として全自動コインランドリーに逆上する滑稽さと、別れた妻に引き取られたひとり娘との居心地の悪い会話の切実さのコントラストが言いようもなく鮮やかである。

厳しいだけの人生が、ある一瞬間に過酷なまでの美しさを見せる。その絶頂を短く迎えるためだけに生きることができる。それもまた普遍的なテーマである。黒沢明の『生きる』を思い出していた。デビッド・ボウイの「ヒーローズ」もそう。これらのリストにこの映画も含めて、この感傷を記憶したいとおもう。池袋グランドシネマサンシャインにて。水曜日はサービスデー。

解析入門 ('18) 全15回

シラバスの課程を終えた。しかし音声講義の不十分さから、不必要に苦しめられたという嫌な気分は最後まで残っている。自分の能力不足を棚にあげて教師を責めることほど無神経なことはないとわかりつつも、ここに関しては我慢することが難しい。ぼくの水準としてはひどく下の位置を占める講義であった。その一端は「ラジオ講義への不満」という題ですでにいちど書いている。

数式を自然言語に翻訳して読み上げることの手際の悪さは中学生でも理解できるはずであるが、ここではあまつさえ極限や積分、総和や留数の記号も口頭で読み上げている。例えば項別積分の定義を読み上げるにこのような調子であった。

ェェケーイコール...ェイチカラァムゲンダイ...マデワヲォトルコトノ...ェスィージョウデ...ェェセキブンスルコトノ...ォエフケーゼットォディーゼット

文節として不適当な箇所でいちいち言い淀んではつまずくし、文中で好き放題に不分明な弱母音を挿入する発音の癖にも振り回される。

この秘教的な暗号に対応する数式をテキスト中で追いかけて、理解できればどうということはない。しかし読んでわかるのであれば、それをあらたまって読み上げるだけの講義など、はなから不要である。わからないからこそ、あらかじめテキストを読んで、いまいち理解できないポイントに光が当てられることを期待して、講釈を聞きにきているのである。しかし気づけば晦渋な音声言語を同時通訳的に読み解くための修練を課されるばかりで、肝心の講釈は捨象されている...。

なんとか食らいついていけば学ぶところもあるはずという学生らしい信仰心は少なくとも示そうと取り組んできたが、最後まで講義を聞き終えて、いよいよなにも学び取るものはなかったという徒労感だけが残った。ただテキストが与えられて、予習復習の名のもとにそれを独学しただけであった。講義を聞いて新しく目を開かせられる経験はなかった。退屈な3ヶ月だった。

テキストのまえがきによると、2013年まではテレビ講義として実施していたらしい。ラジオ講義に移行するにあたって工夫を凝らしたとはあるが、移行したこと自体が失敗だったのではないか。中世の数学者であれば、身内だけに口伝するやりかたはありえたかもしれない。しかし分明に定義した記号を記述してアンビギュイティを排除するという方向に進んできた近代数学のあり方にこれは真っ向から反していないか。そんな悪印象を持たされたラジオ講義シリーズであった。

線形代数学 ('17) 全15回

「入門線形代数 ('19)」の直接の続編講義である。「入門」では、行列演算の基本事項から「固有値を求めて対角化する」というところまでをカバーしていた。今期の講義では、幾何ベクトルから再出発して、各種の変換を学んで、ジョルダンの標準形を求める。また2次多項式を合同変換して形状ごとに分類する手続きも与えられた。

テレビ講義の実施が技術的にクリアされているときに、どうしてあえてラジオ講義の形式をとろうとするのかは理解に苦しむが、この講義ではテキストの情報量と講義の情報量が適度に一致していて、厳しく苦しめられることはなかった。主任の隈部先生は、放送大学の副学長も務められているということにつき、講義をインターネットで配信して教育するとうことにさぞ腐心いただいたのだろうと想像するにつけてもありがたい。

最終講義では、半期の学習内容を復習するためのポイントを列挙して10個提示されるというサービスもあった。もちろん、これが学んだことのすべてではないが、期末試験に向けて、あるいはやがて必要に迫られて手引としてテキストを読み返すときのガイドラインとして便利に使えるようにおもう。

  1. 直線・平面を表す式を理解すること
  2. 実ベクトルの内積、複素ベクトルの内積を計算できること
  3. 平行四辺形の面積、平行六面体の体積を求めること、外戚の計算ができること
  4. 正規直交基底を求めること
  5. 直交行列・ユニタリ行列の性質を理解すること
  6. 2つの基底が与えられたときに基底の変換を表す行列を求めること
  7. 基底の変換が与えられたときに線型写像の行列表示がどう変わるかを理解すること
  8. 与えられた基底における線型写像の行列表示を求めること
  9. ジョルダンの標準形を求める手続きの骨組みを理解すること
  10. 2次形式や2次多項式を行列を用いて表すこと